詩的散文の中の思春期 コレット『青い麦』

 

青い麦 (新潮文庫)

青い麦 (新潮文庫)

 

  まず、エリック・ロメールの映画を思い浮かべてほしい。『緑の光線』でも『海辺のポーリーヌ』でもいい。海辺のきらきらした陽光があり、バカンスで時間を持て余した思春期の男女がいて、他愛のないおしゃべりが飽きることなく交わされ、恋に悩む。コレットの『青い麦』は、こうしたエリック・ロメール的な要素がつまった小説である、と一応は言える。

 夏の間、ブルターニュの海辺で過ごす16歳の少年フィルと15歳の少女ヴァンカ。二人は毎日のように海に出て、子供っぽい磯遊びに興じているが、互いに抱く淡い恋心が彼らのふるまいをぎこちなくさせてしまう。そこへ現れるのが白いドレスを着た中年の未亡人ダルレー夫人だ。ある時フィルはダルレー夫人の別荘に招かれるが…

 まるで絵にかいたような道具立てに作中人物の関係性はひどく通俗的に見えるが、本作を読みながら感じていたことは、海辺の陽光の明るさよりも朝霧の森の中を歩くような視界の利かなさだ。それはコレット散文詩的な情景描写のせい(そしてある程度は翻訳の問題)だ。一例を挙げよう。

「晴れ間が出て、雨が雲からこぼれなくなり、地平線の真上に明るい傷がほっそりと一つ口を開いた。そこから洩れて、わびしい白い光線の扇が逆さまに懸った。この晴れ間に向かってフィリップの魂は、彼の十六歳という苦悩に充ちた年齢が正直に要求する恩恵と寛ぎを求めて旅立った」(堀口大學訳)

 随所にこうした描写が現れる。訳者の堀口大學は翻訳に相当苦労したらしく、プローズ・リトメ(リズムある散文)と呼ばれるコレットの文体はしばしば論理の脈絡を二の次にし、ともすると筋道が掴みにくく泉鏡花の『草迷宮』を思い出したと書いている(新潮文庫「あとがき」)。さすがに『草迷宮』は大げさだろうと思ったが、一見通俗的に見える作中人物の関係性は、このコレット一流の文体の向こうに見え隠れするという構造になっている。

 ぼくは最初にエリック・ロメールの映画を挙げたが、似ている要素を持ちつつ、ロメールの映画のように光と影に縁どられたくっきりした世界ではない。むしろ、独特の修辞から作中人物の心理が垣間見えたり、浮かび上がったりする。見方を変えると、フィルにしても、中年の未亡人にしても、修辞という衣に守られているうちはよかったが、本性を露わにした(性の共犯関係になった)とたん、コレットの辛辣な視線にさらされもする。

 そういう意味では、ヴァンカが最後にいきいきとした姿で出窓に「現れる」のはとても象徴的だ。彼女だけが未だ作者の辛辣な視線を免れ、生きることの重みを身にまとわずにすんでいる。思春期の終わりに続くのが実人生の重みでしかないとすれば、物語がここで幕を閉じるのは、当然なのかもしれない。