戦争と無垢の魂 坂口安吾『白痴』

 

白痴 (新潮文庫)

白痴 (新潮文庫)

「私はみすぼらしさが嫌いで、食べて生きているだけというような意識が何より我慢ができないので、貧乏するほど浪費する、一ヵ月の生活費を一日で使い果たし、使いきれないとわざわざ人にくれてやり、それが私の二十九日の貧乏に対する復讐だった」(「いずこへ」)

『白痴』(新潮文庫)は敗戦間際から戦後の混乱期を舞台にした短篇7篇が収録されている。『白痴』を読んでいると、中途半端に生きるくらいなら死んだ方がまし的な引用箇所のような記述にしばしば行き当たる。一日で散財して、ざまあと言ってみたところで、残りの二十九日を苦しむのは自分である。「私」は「落伍者」であるというのもまた同様で、進んで「市井の屑のような飲んだくれ」になろうとする。

「人間の生き方には何か一つ純潔を貞節の念が大切なものだ。とりわけ私のようなぐうたらな落伍者の悲しさが影身にまで沁みつくようになってしまうと、何か一つの純粋とその貞節を守らずには生きていられなくなるものだ」(「いずこへ」)

 引用したのは「私」は自分の部屋に鍋、釜といった生活用品を置かない理由を述べている一節だが、自らの「純潔」「貞節」を守るために、進んで落伍者になろうとしている。いや、あるいは、「純潔」「貞節」への復讐だったのかもしれない。いずれにせよ、それは「魂自体の淪落」につながるものでなければならなかった。

 魂の十全な自由が得られないのなら、「魂自体の淪落」を選ぶほかない、そもそも「魂の行く先」を主題化するというのは、 恐るべきロマンチストと言わなければならない。

 本書に収録された7篇の短篇はどれも女と酒に明け暮れる自堕落な生活を送る男、あるいは、妾のような女の視点から敗戦直前の混乱を描く作品だが、戦争が背景以上の意味を持っていることは言うまでもない。食糧難や度重なる空襲などによって命の危険にさらされる日々は、人の仮面を引っぺがし、醜い姿をむき出しにする。「戦争と一人の女」は女の視点から戦争を描いた作品だ。デブやカマキリといった近所の中年の男たちは、女を憎みつつ欲望した。極限状況の中でせりあがってくるのは、性的欲望だけではない。人から社会性を排したエロス的世界そのものがむき出しになる。

「私は密林の虎や熊や狐や狸のように、愛し、たわむれ、怖れ、逃げ、隠れ、息をひそめ、息を殺し、いのちをかけて生きていたいと思った」(「戦争と一人の女」)

 戦争を生き抜く女の夢想に坂口安吾その人の魂の自由を見る思いがする。戦争は多くのものを根こそぎ奪いもしたが、その一方で、根こそぎ奪われることでしか生じないむき出しの世界をもたらした。その人間を問うのに魂そのものが問題になる状況を生み出したのである。

 その意味で短篇「白痴」は、無垢の魂そのものを形象化し得た奇跡の作品だと言える。近所の家から逃げ出してきた美しい白痴の女を自分の部屋にかくまった男は、世間にばれやしないとかびくびくしながら女との日々を過ごす。しかし、東京を大空襲が襲い、男は白痴の女と着の身着のまま逃げ出すことになる。燃えさかる火をかいくぐり、たどり着いた雑木林の中で、「とうとう二人の人間だけが残された」

  この短篇をただひたすら美しいと言った人がいるが、ぼくも激しく同意する。

 

<収録作>

「いずこへ」

「白痴」

「母の上京」

「外套と青空」

「私は海をだきしめていたい」

「戦争と一人の女」

「青鬼の褌を洗う女」