めまい、あるいは落下としての人生 ポール・オースター『ミスター・ヴァーティゴ』

 

ミスター・ヴァーティゴ (新潮文庫)

ミスター・ヴァーティゴ (新潮文庫)

 

(ネタバレ)

「私と一緒に来たら、空を飛べるようにしてやるぞ」

 セントルイスの街角で乞食同然の暮らしをしていた9歳の少年ウォルターはイェフーディ師匠に拾われ、師匠とともに人生を歩み始めた。ウォルターが連れていかれたのは、カンザスの片田舎。そこにいたのは先住民のマザー・スーと体に障害を持った黒人の少年イソップだった。ウォルター少年は彼らと共同生活をしながら、空を飛ぶ修行に励むことになる。

 ここまで書いて、ぼくの筆ははたと行き詰る。イェフーディ師匠に出会ったとき、ウォルターは確かに「けだもの同然」であり「人間の形をしたゼロ」にすぎなかった。彼は人生において何も手にしておらず、したがって、何も失っていない。その先を思い出すのが辛い。思いのほか、痛みを伴う読書だった。

 ポール・オースターの『ミスター・ヴァーティゴ』は、人生の夢と喪失を飛翔と落下のイメージに託して描かれるファンタジーである。ポール・オースターの小説としては、『ムーン・パレス』同様ストーリー・テラーとしての才能が存分に生かされている。

 何かを手にするということは、その分何かを失うことを意味し、大空高く舞い上がるということは、そこに落下の可能性を内包するということだ。ウォルター少年は想像を絶する修行に耐えて、空中を自在に飛び回れるようになると「ウォルト・ザ・ワンダーボーイ」の名で興行を打ち、大成功、一躍その名を知られるスターとなる。

『ミスター・ヴァーティゴ』という小説が痛切なのは、ウォルト・ザ・ワンダーボーイの成功は、ウォルター少年にとって人生のほんの始まりの出来事にすぎないということだ。重力の法則を出し抜き、見事特別な能力を手に入れたと思ったのもつかの間、ウォルター少年は浮遊を試みるたびに、気を失うほど激しい頭痛に襲われるようになり、彼のウォルト・ザ・ワンダーボーイとしての人生はあっけなく終わりを告げる。ウォルターはその後の人生を「ミスター・ヴァーティゴ」(ヴァーティゴはめまいの意)として生きることになる。

「ヴァーティゴ」で思い出すのは、ヒッチコックの傑作サスペンス映画『めまい』である。ジェームズ・スチュワート演じる元警官が、旧友の妻を尾行するうち恋に落ちるがが、高所恐怖症によるめまいが彼を襲って、悲劇が起きる。そこには巧妙に仕掛けられた罠があったわけだが、ヒッチコックの『めまい』は作品全体が大きなめまいの渦の中にあるかのようなミステリアスな雰囲気を持っている。

 落下、あるいは喪失の象徴としてのめまい。『めまい』のジェームズ・スチュワート同様、ウォルターも大きな飛翔の後の、めまいとしての人生を生きているかのようだ。それぐらい彼は多くの喪失を経験した。はらわたをえぐられるような苦しみが何度も彼を襲った。めまいはウォルターにとっての現実を歪ませもする。

 物語の後半、ウォルターが自身の経営するナイトクラブに現れた大リーグの投手ディジー・ディーン(ディジーはめまいがするの意)を殺そうとするエピソードがある。落ちぶれた往年の名投手は、かつてのウォルト・ザ・ワンダーボーイであるミスター・ヴァーティゴに重なり合う。「人間、最後まで来たら、死こそ唯一の望みさ」ウォルターは必死に生きようとしていた。しかし、それはかつての自分、スポットライトを浴びていたスターである自分を殺すことにほかならない。そのようにして彼は長い残りの人生を生きることになった。ごく平凡な人生を。

 しかし、本当にそうだろうか。イェフーディ師匠は言う。

「私たちには死者を記憶する義務がある。それは根本的な掟だ。死者を忘れてしまえば、私たちは自分を人間と呼ぶ権利をなくしてしまう。私の言っていることがわかるか、ウォルト?」

 ウォルターが長い平凡な余生を過ごさなければならなかったとして、それが何だというのか。彼はマザー・スーのことも、イソップ少年のことも、イェフーディ師匠のことも片ときも忘れたことはないにちがいない。ウォルターはもうかつてのようなけだものではない。それは空を自在に飛び回るよりすごいことではないだろうか。