越境する文学 久生十蘭『久生十蘭短篇選』

 

久生十蘭短篇選 (岩波文庫)

久生十蘭短篇選 (岩波文庫)

 

  (ネタバレ)久生十蘭の小説の魅力をどう言葉にすればいいのだろうか。ジャズの即興性にたとえた人がいるが、なるほどと思う。その作品から受けるのは、だまし絵、越境性、めまいのような感覚。そしてそれを支える圧倒的技巧、文学的教養の豊かさである。

 本書『久生十蘭短篇選』(岩波文庫)の解説で川崎賢子は次のようにかいて書いている。「世界大戦をはさんで、越境者、漂泊者、移民、日系二世、混血、難破・漂流、生きくれて国家の庇護を離れてしまった人びとの境涯、かれらの生きる多言語多文化空間のあれこれは、久生十蘭のきわめて重要な文学的主題だった」

 越境にもいくつかあって、国境を越えた舞台設定はいちばんわかりやすい例だろう。情報将校としてフィリピンで活動した名家出身の男の苦悩を描く「蝶の絵」、戦争によりパリからの帰国を余儀なくされた息子の恋愛の顛末が母親の視点から語られる「ユモレスク」、カナダ人捕虜と日本人の娘の視線を交わすだけの恋を描く「春雪」などがある。

 言語のレベルの越境もある。「鶴鍋」に登場する参亭という俳人の名はフランス語の小径を意味するSentier(サンティエ)から来ていたり、参亭はヴェルレーヌの詩の中に新しい句境を開こうと呻吟していたりする。

 もう一つ言語レベルの越境の例は、アンソロジーにも取り上げられることが多い傑作「予言」だ。このめまいのような感覚を引き起こす魔術的な語りで構成される短編は、主人公の安部という男が、彼にうらみを持つ男の不気味な予言に翻弄される話で、どこまでが現実でどこまでが主人公の見ている夢なのかがあいまいなのだが、読んでいて身体的なゆらぎさえ感じてしまうのが、「われわれ」というあいまいな人称による語りだ。

「安部は死ぬとは思っていないので、愉快そうに話していたが、われわれはもう長くないことを知っていたので、なんともいえない気がした」(「予言」)

 視点人物は基本安倍なのだが、ときどき出てくる「われわれ」は、あたかも運命そのものが語っているかのような錯覚に陥る。

 さらに生と死の境界を越える越境がある。久生十蘭の越境は単なる舞台設定ではなく、目の前にある「現実」がくるりと別のものと入れ替わったり、本来は見えないはずのものが見えたりするきっかけになっている。そしてそれが、生と死の境界を越える場面につながる。先に言及した「ユモレスク」では、亡くなったはずの女性と息子が車に乗っているのを息子を訪ねて渡仏していた母親がちらりと見る。十蘭の作品にあっては、これが現実で、これが非現実でといった区別が無意味に感じられるような絶えざる越境が行われている。

 生と死の境界を越える越境で最も印象深いのが「黄泉から」だ。今がお盆であることさえ忘れている主人公光太郎が過去を想起する段階的な過程とその過程に伴う痛みを、息をのむような美しい絵画的イメージに結実させた傑作。幽霊譚として忘れ難い一篇だ。クライマックスでは婦人軍属として訪れていたニューギニアで病の床に臥すおけいは、死ぬ前に何か願いはないかと問われ、雪を見たいと答える。ニューギニアで雪など見られるわけがないが、軍医の計らいで担架に乗せられ谷間に移動したおけいは、そこで確かにちらちらと降りしきる雪を見たのだった。その雪はニューギニアでは雨期明けによくあるというかげろうの大群だったという。

 このエピソードに限らず、久生十蘭の世界はあらゆるものが二重写しになって現れる。決してとどまることなく越境し続け、一つのものに定まることのない世界こそ、久生十蘭の魅力だと思う。

<収録作>

「黄泉から」

「予言」

「鶴鍋」

「無月物語」

「黒い手帳」

「泡沫の記」

「白雪姫」

「蝶の絵」

「雪間」

「春の山」

「猪鹿蝶」

「ユモレスク」

「母子像」

「復活祭」

「春雪」