分裂する小説世界 アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』

 アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』は、推理小説として破格だ。アガサ・クリスティーと言えば、エルキュール・ポアロミス・マープルなどの探偵物でおなじみだが、本書『そして誰もいなくなった』には、探偵役にあたる作中人物が登場しないのである。しかし、殺人事件は起こる。それも十分すぎるほど。読者はこの小説を読みながら、果たしてほんとうに謎は解かれるのか、事件は未解決のまま放り出されるのではないか、そんな疑問がわき起こる。
 職業も社会的地位も異なる十人の男女が兵隊島という奇妙な名前の孤島に招待された。U・N・オーエンと名乗る人物からで、彼らは優雅な休暇を期待して島に渡った。彼らを迎えたのはモダンで豪華な邸宅といかにも実直そうな執事。なぜか招待してくれたはずの主人の姿はない。部屋も最初の食事も申し分なかった。部屋にはマザーグースの童謡「十人の兵隊さん」(原作では「十人のインディアン」。青木久惠の新訳では差別用語に対する配慮のため「兵隊さん」になっている。島の名前も原作では「インディアン・アイランド」)が額にいれて飾ってある。

 小さな兵隊さんが十人、ご飯を食べに行ったら
 一人がのどをつまらせて、残りは九人

 小さな兵隊さんが九人、夜ふかししたら
 一人が寝ぼうして、残りは八人
 
 こんな調子で兵隊さんが一人ずつ減っていき、「そして誰もいなくなった」で終わる。最初の「事件」が起きたのは、招待客が食事を終え、応接室でくつろいでいたときだった。突然、島にいる全員の名と「罪状」を読み上げる「声」が部屋に響き渡ったのだ。「声」が挙げたのは、殺人やひき逃げなど重罪ばかりだったが、刑事事件としての立件は免れていたものばかりだった。人々は皆凍りつき、口々にひどい「いたずら」を非難し、自分にかけられた疑いを否定するのだったが、そんな騒ぎのなか、招待客の一人で若さに満ちあふれた青年アンソニー・マーストンがクラスの酒を飲みほしたかと思うと、そのまま倒れて息を引き取ってしまった。テーブルの上に10個あったはずの兵隊人形が一つ減っているのに気がついたのは、執事のロジャーズだった。このようにして島にいる人々が一人また一人と殺されていき、そのたびに兵隊人形もまた姿を消していく…。
 邸宅の主人が姿を現さず、島にいるのは邸宅の滞在客と執事だけである以上、犯人はその中にいることになる。今ここで進行しつつある事態がたちの悪い冗談ではないことが明らかになったとき、作中人物たちは忍び寄る殺人鬼の影におびえ、極度の緊張と疑心暗鬼にさらされる。『そして誰もいなくなった』を「推理小説」として読み始めた読者は、ここでいくつかの疑問に行き当たる。本当に事件は解決されるのか、犯人の目的は一体何か。
 しかし『そして誰もいなくなった』の恐怖は、「声」の告発した罪状ほどではないにしても、人は誰しも他人に言えない「罪」を隠し持っているのではないかという点である。作中人物たちが仮に有罪故に「罰」を受けているなら、その作中人物は、ぼくでもよかったのではないか。こうした疑念にとらわれると『そして誰もいなくなった』の作品世界は二つに分裂する。
 一つは一人、また一人と殺された末に、明かされる犯人と驚愕のトリック。ああ、その手があったのかというエンタメ小説としての世界。もう一つは、解決はあくまで小説的決着に過ぎない、なぜならあなたの罪状はまだ裁かれていないからだとささやきかけてくる小説の深層世界。私は無罪だと言える人はいない。いや、そういえば、作中人物にエミリー・ブレントという厳格な父親に育てられた頑固なオールドミスがいて、その人物は「私にはやましいことなどこれっぽちもありません」って言ってたっけ。アガサ・クリスティーって作家はずいぶん意地悪だよね。それはともかく、この小説を読んだら最後、自分が兵隊島にいるんだという自覚を植え付けられる。そして、そこではまだ殺しが続いているのだ。