右手と左手の攻防 大岡昇平『野火』

『野火』という小説のことを戦争文学だと思っていた。フィリピンのレイテ島で喀血した主人公「私」(田村)は所属部隊からも野戦病院からも追い出され、しばらくは同じように行き場を失った兵士たちと暮らしをともにするが、のちにはたった一人島をさまよう。これを戦争文学でないというのは、ヘンかもしれない。しかし、個人が戦争という巨大な運命の渦にどのように向き合うのかというのが戦争文学、つまり、戦争文学は個人と社会という古典的主題のバリエーションだと考えられる。ところが、田村は小説が始まってすぐ、自分の「所属」を失ってしまうのである。
 言ってみれば、『野火』は、一種の思考実験のような小説である。人は孤独だという言い方には、その背景に社会が想定されているが、ほんとうの意味で人間がたった一人になったとき、どうなるのか、というか、そもそも人間がたった一人になるとは、どういう意味なのか、大岡昇平はそれを本気で考えようとしているのだ。
 田村一等兵は、レイテ島のジャングルをさまよいながら、さまざまなものを失っていく。もう少し正確に言うと、生きるというたった一つの目的のために必要でないものから、田村という人間のどこか見えないところへ退いていく。田村はもともと少年期にはキリスト教の教義に惹かれ、島を歩きながら、ベルグソンの記憶についての哲学の合理性を批判的に考察したりする程度に文化人である。そんな田村が「戦争」という大義をはぎ取られた後も、人間としての超えてはならない一線を次々と超えていく。
 身の回りのものたちが「わたしを食べてもいいよ」とささやきかけてくる。食糧が尽き、残された最後の手段は「食人」しかないという極限まで追いつめられたとき、田村の身に無意識のうちに起こった右手と左手の攻防は、人間という存在の重層性をまざまざと見せつける。田村は捕虜として米兵に拘束されたのち、帰国を果たすも、結局妻と別れ、精神病院に入院する。『野火』を読んでつくづく「狂気」というのは、メッセージを受け取る能力のことだと思った。思えば、田村が島をさまようあいだ、たびたび上がっていた野火は、尽きることのないメッセージのことだったにちがいない。
『野火』は1959年に市川崑監督により映画化されていたが、最近では、2015年夏にに劇場公開された塚本晋也監督作品でも話題になった(2015年キネ旬ベストテン第2位)。ぼくはどちらもまだ見ていないが、普通に映像化すれば、日本兵の死体がゴロゴロしているレイテ島を食べ物を求めて歩き回る話になってしまうと思う。凄惨な戦場を見せる即物的などぎつさだけでなく、精神性の部分をどう表現しているのか気になる。