記録する その1 ケルアック『路上(オン・ザ・ロード)』

 

 最初に思ったのは、フィクションというより、記録文学だということだ。ビート・ジェネレーションの代表作『路上(オン・ザ・ロード)』にケルアック自身の体験が反映されており、主要な作中人物にモデルがあったことはよく知られている。「記録」というのは実際にあったことがこの小説に書かれているという意味でもあるが、語り手「ぼく」(サル・パラダイス)の日記を読んでいるような気がしたことと、そして、サル・パラダイスはディーンという向こう見ずでトリックスター的な人物の忠実な記録者に見えたからである。

 第一次世界大戦後に現れたロスト・ジェネレーションと呼ばれる作家たち、ヘミングウェイフィッツジェラルドの小説を読むと、彼らが大きな喪失感を抱えていたことがわかる。そして、その喪失感が物語を紡ぎ出す原動力となっていたことも。少なくともロスト・ジェネレーションの作家は、失ったものをめぐる物語を書くことができた。

 その20年~30年後、第二次世界大戦を経て登場したビート・ジェネレーションの作家たちは構成の整った物語を書くことを拒否した。これまでの価値観を支えていた大きな物語が欺瞞でしかないなら、さしあたってそれをbeatするしかないわけだが、『路上』は、ディーンと「ぼく」(サル)ら仲間たちがアメリカ大陸を幾度となく横断しながら、アルコール、ドラッグ、セックス、ジャズ、ときどき日銭を稼ぐ肉体労働に明け暮れる。誤解を恐れずに言えば、ここにあるのは実に退屈な反復運動のようなものだ。

 彼らが何かを求めているとすれば、退屈な反復運動を超えるスピード、そして、何物にも還元できない特別な瞬間だろう。ディーンが好んで出かけていくナイトクラブで明け方まで演奏されるビバップの高揚感の中にそんな瞬間があったのかもしれない。しかし、翌朝にはまた食うにも事欠く灰色の日常が彼らに追いすがる。

 特異な人物を描くためには、記録者がいる。記録し、語るのは平凡な人間の仕事だからだ。ディーンには身寄りがおらず、子供のころ行き別れた浮浪者の父親を捜し続けているが、「ぼく」はやさしい叔母さんにたびたび旅費を無心している。ディーンは「ぼく」を振り回し、ときに厄介ごとに巻き込みもしたが、「ぼく」はディーンという果実を受け取った。ディーンという粗野で身勝手で破滅的な人物はあとに何も残さない。権威から最も遠いところ、つまり「路上」にいるのが彼だ。ディーンの影のように彼のそばにいて、その言動を逐一観察していたのが「ぼく」というわけだ。おそらく「ぼく」はディーンに灰色の日常を追い越せる無謀なスピードを期待していたのだろう。おかげでぼくらは今、当時の空気を感じることができる。

付記:読んだのは福田実訳『路上』(河出文庫