物語と作者の逆説的な関係 いしいしんじ『雪屋のロッスさん』

 タクシー運転手、調律師、図書館司書、床屋、警察官…。短編集『雪屋のロッスさん』は様々な職業の人物を主人公にした31の短編が収められている。といっても、大泥棒、雪屋、雨乞いなんて変わり種からポリバケツなんて、もう人間でさえない主人公もいる。ともかく、いろんな存在の社会的役割を主題化した物語ということだ。いしいしんじというと、以前このブログで『白の鳥と黒の鳥』という短編集を紹介したとき、いしいしんじという作家が書いたというより、風が運んできた物語をいしいしんじが書き取ったみたいだという意味のことを書いた。そんなことを思い出したのは「パズル製作者のエドワード・カフ氏」の次のような一節を読んだからだ。
「一流の制作者がつくったパズルの特徴はなにか。逆説めいていますが、それは匿名性が徹底されていることです」そして、カフ氏はある日、謎のパズルマスターB氏の手になる「『完璧』なクロスワード・パズル」を目にする。そのクロスワード・パズルは「野鳥の名や地名が、風に飛ばされ、はらはらと地面に落ち、それがたまたま、パズルの形につながっていた、という感じ」なのだという。
 確かにここにはいしいしんじの理想とする物語の形が語られている。そんな話をこの本を貸してくれた人にしたところ、その人は「でも、いしいしんじって、自分がええ話書いてると思てるやんな」と言ってきた。その人は江國香織の『つめたいよるに』の中にある「草之丞の話」なんかを引き合いに出してこんなことを言った。ぼくは、本を貸してくれた人の意見にちょっと驚きながら同意した。
 ただ、ここには補足説明が必要だ。「ぼくはいい話を書いている」というのは、物語として余計なことかもしれない。『千夜一夜物語』にしても、日本の昔話にしても「匿名性」という以前に、作者などは問題にされていない。しかし、それは近代以前の話。現代の作家には、そんなものを書くことはできない(まあ、そういう意味で「草之丞の話」は奇跡みたいなものだ)。それを理想とする作家がいる、そういうことだ。そう思って『雪屋のロッスさん』の短編を読むと、「ポリバケツの青木青兵」とか「雨乞いの『かぎ』」「旧街道のトマー」「見張り番のミトゥ」など自我意識から解放されて、普遍性を獲得する話があることに気づく。良くも悪くも「いい話」になる原因はこのへんにあると言っていい。
 そう、物語は決して「風に飛ばされ」やって来たりはしない。できれば風になってしまいたい、そう願う作家いしいじんじの「匿名性」をめざす物語。逆説的な物語と作家の関係がここにある。