「楢山節」というファンタジー 深沢七郎『楢山節考』

 もっと悲惨な話を想像していたというとヘンかもしれない。棄老伝説をもとに深沢七郎が書き上げたのは、食べ物が乏しい山間の寒村で、七十になった老人を山に捨てるという十分に悲惨な話だからだ。しかし、読後感はからりと乾いた感じで、なるほどこれはタイトル通り「楢山節考」なんだと納得した。
 
 おらんの父っちゃん身持の悪さ/三日病んだらまんま炊いた
 
 村には多くの生活に密着した歌がある。これは贅沢を戒めた歌で、ちょっと病気になったら、親父はすぐ白米を食べる。しかしそれは人から「極道者」とか「馬鹿者」などとあざけりの対象になるという。歌ではないが「めしを食わせねえぞ!」という罵り言葉もあり、実際の懲罰のほかに単なる悪態としても使われるのだそうだ。村では白米は「白萩様」と呼ばれ、祭りなど特別のとき以外は粟、稗(ひえ)、玉蜀黍(とうもろこし)等を常食としている。つまり、村の生活様式を規定するのは、食糧が十分でないという単純かつ切実な現実である。
 来年七十になるおりんの気がかりは、「楢山まいり」(山に捨てられること)ではなく、四十五になる息子辰平の後妻を探すこと、そして自分の歯がとても丈夫だということだ。「その歯じゃァ、どんなものでも困らんなあ、松っかさでも屁っぴり豆でも、あますものはねえら」とおりんは村人にからかわれる。これは冗談ではなく、生えそろった歯は「食うことには退(ひ)けをとらないようであり、何でも食べられるというように思われるので、食料の乏しいこの村では恥ずかしいことであった」おりんは丈夫な歯を少しでも減らすために、石臼へ体当たりして歯を折ろうとさえする。

 お姥(んば)捨てるか裏山へ/裏じゃ蟹でも這って来る
 這って来たとて戸で入れぬ/蟹は夜泣くとりじゃない

 この歌はかつて楢山ではなく、裏山に年寄りを捨てていたとき、老婆が帰って来てしまったことを歌ったものだという。楢山に捨てられたら、もう帰ってくることはできない。しかし、おりんは「楢山まいり」を心待ちにしている。深沢七郎は短編「白鳥の死」の中で「私の『楢山節考』のおりんはキリストと釈迦の両方とも入っているつもりで(…)」とおりんの宗教性に言及してるが、見方によっては気ちがいじみたおりんの行動は、楢山節という歌が規定する価値観に裏打ちされている。おりんは自分が犠牲になり、食い扶持を一つ減らすことにより家族のためになることを疑いを持たないばかりか、よろこびさえ感じている。
 戸板に縄でがんじがらめにされて捨てられる又やん、最も重い罪とされる食糧の盗みを働いてしまう雨屋の亭主などのエピソードは、生に執着しないおりんを際立たせる。「生きる」ことを100%肯定するのが近代的価値観だとするなら、おりんはその対極にいるが、その行為は「楢山節」というファンタジーが支えている。おりんのような存在をリアルに提示して見せた『楢山節考』は、同時に現代がどんなファンタジーによって規定されている時代なのかということも考えさせる。