巨大な幽霊 梨木香歩『冬虫夏草』

 本書『冬虫夏草』は駆け出しの物書きである主人公綿貫征四郎が狐狸、河童、植物の精などさまざまな異界のものたちと出会う『家守綺譚』の続編。『家守綺譚』を読んでいるとき考えていたのは、現代の作家がどのようにして異界を描くのかということだ。これだけ科学が発達し、幽霊や妖怪の居場所がなくなってしまった現代に今さら「お化けだぞ」なんて言ってみても、結局のところ「忘れられた世界」みたいなコピーを付けられて、消費されて終わってしまう。前作『家守綺譚』がぎりぎりのところで踏みとどまってるなと感じたのは、主人公綿貫征四郎が、すでに失われている世界をそうと知りながら、必死にそれを守ろうとしていた滑稽さがきちんと描かれていたからだ。だから、彼が異界のものたちの記述を試みようとしたとき物語は幕を閉じる。前置きが長くなったが、言いたいことは『家守綺譚』の続編なんて考えられないと言うことだ。
『家守綺譚』同様、続編の『冬虫夏草』にも、近代化の中で私たちが切り捨ててきたものや生活が細やかに描かれ、とてもしたわしい気持ちになる。気持ちがいい。しかし、だとしたら『冬虫夏草』は失敗作である。現代人の欺瞞に手を貸しているにすぎないから。ぼくは『冬虫夏草』を読み進み、舞台の鈴鹿の山々で深呼吸したいような気持になればなるほど、一方で疑念を募らせていった。
 うちに帰ってこなくなった飼い犬ゴローを探しに鈴鹿の山々に分け行った征四郎は、山間の村に暮らす人々と出会う。愛知川沿いに上流を目指す旅は、例によって河童や竜、天狗といった変化の類も描かれるが、前作と異なるのは、山の生活そのものやそこに生きる人が生き生きと描かれていることである。なぜそうかのか。象徴的なのは、身重の身体でありながら、冷たい川の水に足をさらす重労働をしていたせいで亡くなったお菊さんが幽霊となって征四郎のもとに出てくるところ。「ダマ踏み」という重労働を体験させてもらった征四郎は、「こんな冷たい難儀な作業を身重の体で(…)」と涙を流す。もともと間の抜けたところのある征四郎だが、山に入ると文士の面影が消え、虚ろな容器のようになっていく。友人の植物学者南川が道連れとして登場するのは、うつろな征四郎に変わって、状況を言語化する必要性からだろう。南川はところどころで適切な解説を差しはさんでいく。地質や植物学、民俗学といった知識や言説は、征四郎が鈴鹿に入って生きている現実とは相いれない。お菊さんの幽霊が現れたとき、征四郎はそれに話しかけようとするが、南川は恐怖のあまり失神してしまうのである。
 お菊さんが征四郎のもとに現れたのも、征四郎が念願のイワナの夫婦がやっているお宿にたどり着けたのも、今や彼はからっぽだからだ。それはとても危険なことでもあって、ふとしたはずみにもう戻れなくなる可能性をはらんでいる。「竜の滝の裏にある洞に入ってはいけない」とか「アマゴの宿には近づくな」とか適切な助言を与えてくれるものがなければ、どうなっていたかわからない。
 村の宿で東堂から聞いた「巨大な川桁」の話は、征四郎を動揺も憤慨もさせる。ゴローが鈴鹿の山で奮闘しているのも、どうもそれと関係があるらしい。しかし、征四郎は「手に負えぬ煩いは放っておけ、帰るぞ、ゴロー」と言い放つのである。愛知川の上流にあたる鈴鹿の山間は、それ自体が幽霊である。お菊さんが幽霊として征四郎の前に現れ、言伝てを残していったように、征四郎は心を尽くしてその山を歩き回り、耳を傾けるしかできない。鈴鹿の山を殺すのはもっとのちの人間、端的に言って私なのである。したわしいどころではない。私が殺したものの幽霊を見ていたのだ。梨木香歩は、物語全体を通して、「消費する」という形ではない異界を見せてくれた。