「千代なるもの」とは何か 梨木香歩『f植物園の巣穴』

 ぼくは梨木香歩の熱心な読者ではない。『家守綺譚』も楽しんだ一方で、ときに可憐で、ときにいたずらっぽい異界の者たちを必死に守ろうとする家守の姿に現代に「怪異を書く」ことの困難を感じた。異界というのは、そんなもんじゃない。書けないなら、無理して書くことはない。そう思って梨木香歩を読まずにいたとき、ある人が『f植物園の巣穴』を勧めてくれた。
「巣穴」とは穏やかではない。巣穴に限らず、穴は避けるに越したことはない。最近、園丁としてf植物園に赴任してきた男もそうして穴を避けるようにして生きてきた。そんな男に大きな虫歯の穴があく。痛みに耐えかね歯科に駆け込むと、なぜか歯医者の「家内」はときどき犬の姿に変身するようだ。歯医者と犬の「家内」は男の虫歯の穴をのぞき込んで言う。「これは酷い」
 穴はまだある。園丁の男が勤める植物園の一角にある椋の木に何かの巣穴らしい穴があいていたのだ。男はそれを調べようとするが「何となく第六感がやめておけと囁くので、それ以上探りを入れることはしなかった」
 しかし、こうなるともういけない。男はいろいろな人物に問いかけられる。「あなたの知りたいことは何か」と。男は植物園に勤める身。「一般常識」や「科学」を持ち出しては、身の回りに起きる不可思議な出来事を切り捨てようとするが、一度、気づいてしまった「穴」の存在から逃れることはできない。それは男が学生時代にアイルランド人教授からもらったウェリントン・ブーツをどこかになくしてしまったことからもわかる。ブーツは男にとって近代的価値観の象徴である。いわば鎧を奪われた状態で、男は穴の中へと探索に赴くことになる。
 ことはどうやら二人の「千代」にかかわるらしい。一人は男の亡くなった妻。もう一人は男が幼い頃、男の家で働いていた女中。したがって、男の穴の中の探索は、そのまま過去の記憶をたどる道行きということになる。故郷の風景と見える山野に囲まれて男が途方に暮れていると、そこへ「カエル小僧」なるものが現れ、男の道連れになる。「カエル小僧」が何なのか、その正体は読み進めばわかるのだが、重要なことは、男の「知りたいこと」の核心が「千代なるもの」であるということ、それはさらに男の罪にかかわることだということである。
 気軽な気持で手にした『f植物園の巣穴』を読み進むにつれ、ぼくの気持ちは激しく揺さぶられた。男の異界探索が、自分の罪に触れる、見ないようにしてきたものを再び思い出すものであったということだけではない。これまで様々な形で異界を描いてきた作家・梨木香歩が、異界という圏域の存在意義を、女性の立場で問うたという事実が感動的なのである。多くの、あえて「多くの」と書くが、殺された「千代たち」がいる。その「多くの」殺された千代たちの声をもう一度聞くことが、異界を描く女性作家の仕事である。
 人は(と一般化するが)、何かを殺さずに生きることはできない。それを意識しつつ、「でもしかたないよね」と開き直るのか、それとも、何かが変わることで(本書では「水」の流れを作ること)、再び殺されたものに「生」を与えるのか。
 怪異というのは、罪の自覚ある作家が開き直ることによって、はじめて描きうる形式である。「開き直り」がいけないわけではない。あくまで作家の立ち位置の問題だ。ぼくが『家守綺譚』に疑問を感じたのは、何となく怪異が描かれている気がしたからだ。しかし、梨木香歩は本書『f植物園の巣穴』によって、怪異の意味と同時に、死んだと思われていたものが再び「生き直す」可能性を描いた。