ルツィエの沈黙 ミラン・クンデラ『冗談』

 みすず書房版の『冗談』には、丁寧にも「著者まえがき」「著者あとがき」が付いていて、クンデラ自身がこの小説をどう読んでほしいか解説を書いている(「肉体と精神の乖離をめぐる悲しいラブストーリー」)。チェコ語版の刊行が1967年、プラハの春とそれに続くソ連の軍事介入が1968年ということを考えれば、たった一言の冗談が一人の男の人生を狂わせてしまうという『冗談』のストーリーが、当時の共産党体制に対する告発の書とみなされるのは当然と言えば、当然だ。作者が嫌う「スターリニズムに対する一大告発」といった読み方が一面的であることは否めないが、『冗談』は「政治」的な小説だという感想を持った。
 各章は作中人物(ルドヴィーク、ヘレナ、ヤロスラフ、コストカ)の名前が付されており、章ごとに視点人物が入れ替わる一人称の語りになっている。ルドヴィークは、大学生のとき思いを寄せていた女の子に興味を持ってほしくてはがきに書いた冗談によって、大学を退学処分になるだけでなく、炭鉱労働に従事させられる。彼は、自分に有罪判決を言い渡した党委員会のリーダー(ゼマーネク)への強い恨みをいつまでも持ち続けている。ゼマーネクへの恨みは内面化され、生きる動機になっている。ヘレナは教条主義的な党員、ヤロスラフは地元に伝わる民謡の研究者、コストカはキリスト者といったぐあいに、それぞれの語り手は自分が拠り所とするものを持っている。彼らはそうした立ち位置から、自分中心の物語を作り上げ、その物語の枠組みでものを見たり、考えたりする。
 彼らの語りは、自分という物語を補強し守る言葉のよろいのようなものである。同じ出来事が異なる視点、異なるコンテクストで語られるとき、同じ出来事でありながら、あるいは、同じ人物でありながら、まったく違った様相を呈する。『冗談』が「政治」的だというのは、この小説が複数の視点からなる物語のぶつかり合いから成り立っているからである。ぶつかり合い、ときに自分の物語を他人に認めさせようとする、あるいは、他人を自分の物語の中に組み込もうとする。言葉がよろいだというのは、黙っていると組み込まれてしまう、相手の物語の中に生きることを強いられるからにほかならない。政治とは、結局のところ、同じ物語を共有する人々の範囲を広げていくことである。
 社会を物語の臆面もないぶつかり合いとして描く『冗談』という小説がすばらしいのは、実は言葉を持たない者、その出自を自分の物語として語り得ない者を言葉の奥に隠し持っているからである。兵役時代のルドヴィークが恋し、地方の農場で働いていたコストカの前に浮浪者として現れるルツィエという女がそれである。ルツィエが自ら語ることはない。コストカやルドヴィークの語りの中に彼らの視点を通して描かれるルツィエは、その身ぶりで強い印象を残す。言葉というよろいを身にまといながら、自ら作り上げた物語に裏切られる作中人物たちを尻目に、ルツィエは愚鈍なロバのように「物語」を横断する。ルドヴィークにせよ、コストカにせよ、ルツィエを自らを映し出す鏡として、彼女に過剰に意味を見出そうとするが、それはいわば言葉にならないものへの不安が反映されている。『冗談』の作中人物は多くの言葉を費やしたが、ルツィエの沈黙はそのまま残っている。