目覚める少女 山尾悠子『ラピスラズリ』

 日常を忘れたいときは外国文学を読む。ちょっと遠くへ出かけるような気がするからだ。そんなニーズを満たしてくれる日本の小説はあまりないなと思っていたけど、山尾悠子の連作長編『ラピスラズリ』は、読者を場所も時代も定かではない幻想世界に連れて行ってくれる。
ラピスラズリ』は4つの短編と中編「竈の秋」で構成されていて、そのどれもに「冬眠者」という冬の間ずっと眠り続ける人々が登場する。最初の短編「銅板」は、深夜営業の画廊に立ち寄った女が古びた3枚の銅版画について、画廊の店主と話を交わす。それぞれの銅版画は昔の小説の挿絵だったものらしいが、何の小説なのかはわからず、挿絵から推測するしかない。それら3枚の銅版画が次の「閑日」「竈の秋」へのイントロダクションになっている。
 秋が深まり、木枯らしに落ち葉が激しく舞う頃になると、「冬眠者」たちはまるで冬ごもりの前のクマのように栄養を蓄え、長い眠りの支度にかかる。最初の雪が降る前には、彼らはいくつも立ち並ぶ塔にこもって、冬のあいだ眠り続けるのである。「冬眠者」たちは広壮な屋敷に住む特権階級で、彼らの生活は、多くの使用人たちによって支えられているが、どうやら忠実な使用人たちばかりとは限らないようで、主人たちが眠っているあいだにう一部に不穏な動きがあるようだ。吹雪の吹き荒れる冬の夜、一人の少女が目を覚まし、窓辺でぼんやり光を放つゴーストと出会うが…。
ラピスラズリ』の魅力は、現実にとっかかりのない物語世界を空疎な夢想に終わらせない工夫である。使用人たちの世界だけでも、庭師や大台所など役職や部署に分かれているし、広大な屋敷ではあるが、実は古びてあちこちがたがきており、屋敷の女主人は経済的な危機に直面していることがほのめかされる。さらに、「冬眠者」が眠っているあいだ、彼らを見守る人形や建物それ自体の迷宮性などが物語に現実味や奥行を与えている。
 その一方で、視点人物を定めない語りは、物語の時間や場所を自在に行きつ戻りつしながら、物語世界に何が起こりつつあるのかということを必要以上に明確にしないことによって、薄もやに包まれた夢の世界にいるような雰囲気を与えている。全編を貫くモチーフが眠りであること、「冬眠者」たちの特権性は経済的困窮により、維持が難しくなりつつあること、痘瘡の流行などを考え合わせると『ラピスラズリ』が「死と再生」という伝統的な話型を共有していることは言うまでもない(「閑日」「竈の秋」は再生よりは、死、一族の没落のほうを強く感じさせるが)。それは「竈の秋」に続く短編「トビアス」「青金石」の二篇に、目覚めと春が強く印象付けられることからもよりはっきりする。
 「トビアス」は人間の数が極端に減少した近未来の日本とおぼしい小さな町で、「おばあ様」が亡くなったことにより、身辺に大きな変化が起こる少女の話で、前の三篇とは全く異なる設定ながら、眠りから覚めてしまう少女や人形のモチーフが共有されていることで、連作長編としての統一感は保たれているし、むしろ場所も状況も異なる場所でこそ、ある種の「復活」や「再生」が信じられる気がする。ぼくの好みからいうとこの「トビアス」がいちばん。かつては活気があったであろう、さびれた海辺の商店街とか、トビという犬の使い方、生きるために食べるいちごジャムとか、寂しさと少しの希望が同時に感じられるのがいい。「竈の秋」「トビアス」の少女たちは、さびしくて目が覚めてしまったのではないだろうか。