探偵と語り手の意外な関係 坂木司『青空の卵』

「ひきこもり探偵」ってちょっと変わってるな、いわゆる安楽椅子探偵の進化形? 坂木司の『青空の卵』。図書館でふと目に留まり、何の予備知識もなく読み始めた。それなりにおもしろかったんだけど、予想と違って、かなり風変わりな推理小説だった。
『青空の卵』は「夏の終わりの三重奏」「秋の足音」「冬の贈りもの」など、全部で五つの短編が収録された連作短編集だ。推理小説といっても、殺人事件が起きるわけではなく、語り手坂木司(作者と同名)の前に現れる日常のちょっとした疑問や謎が、坂木の友人で「ひきこもり探偵」鳥井真一のところに持ち込まれる。日常の出来事が解かれるべき謎として描かれるといって思い出すのが、『空飛ぶ馬』などがある北村薫の「円紫さんと私シリーズ」だが、『青空の卵』から始まる「ひきこもり探偵シリーズ」は、探偵役と語り手の関係性や事件の中心的な人物が社会的弱者であることなどに大きな特徴がある。
「夏の終わりの三重奏」では、美貌故に男性からのセクハラの標的にされる女性、「秋の足音」では、盲目の高校生が登場する。そのような「弱者」の存在を語り手の「僕」は放っておけない性分なのである。そういう「僕」の性格が最もよく反映されているのが、探偵役鳥井真一との関係だ。鳥井の職業はコンピューター・プログラマー。日々マンションの自室で過ごす鳥井が、ひきこもりになったのは、母親に捨てられたことと学校でのいじめだ。クラスメイトから孤立状態にあった彼に唯一話しかけたのが、「僕」(坂木)だった。それ以来、大人になってからも鳥井が心を開くのは、「僕」にだけ、そして、「僕」が誘うときだけ、しぶしぶながら近所のスーパーまで買い物に行くぐらいの外出をする。いわば「僕」は鳥井の保護者である。
 男性だけを狙う暴漢の被害が相次いでいるさなか、夜道を一人で歩く「僕」は思う。「恐い、恐すぎる。夜道を歩く女の子って、いつもこんな恐い思いをしているんだろうか」(「夏の終わりの三重奏」)あるいは、駅を歩く盲人に誰も手を貸そうとしないのを見てこんなことを考える。「皆余計なお世話をしてしまうのが恐いのだ。でもよく考えてみて欲しい。僕らが少しばかり上滑りしたところで、ただの笑い話だけれど、身体の不自由な人が本当に困ったときの不安な気持ちなんて、想像がつかない」(「秋の足音」)
 う〜ん、ときに気恥ずかしくなるほどの説教臭さ、素人っぽさ。でも、あきらかにこれが坂木司という作家の持ち味なのだ。何しろ「僕」は定期的に鳥井のマンションを訪れることができるという理由で、残業が少なく、比較的自由がきく外資系保険会社の営業職を選んだというのだから、すごい。母親に捨てられた鳥井の母親役は「僕」なのだ。買い物に誘ったり、いろんな事件を持ち込み解決を依頼したりする「僕」のねらいは、鳥井の目をもっと外の世界に向けさせることだ。そして、それは成功しているかに見える。話を読み進むにつれ、鳥井の「世界」は確実に広がっていく。創元推理文庫版の解説にもあるように、一度登場した作中人物が二つ目、三つ目の短編にも登場する構造は、広がっていく鳥井の世界を表しているようだ。
 推理小説とはいうものの、謎解きよりむしろ小説が持つ独特のまっすぐな志の高さのようなものに圧倒される。とはいえ、ここに一つ母親のジレンマとでも言うべき落とし穴がある。それは息子の成長をうれしく思う反面、次第に自分から離れていく息子に寂しさを覚え、いつまでも自分の手元に置いておきたいという心理である。不安感のあまり、パニックを起こし、部屋に閉じこもってしまった鳥井に「僕」はありったけ声で叫ぶ。
「僕は裏切らない!」
 寄り添うことでもあり、同時に支配することにもなりかねない「僕」のふるまいに、作者坂木司は十分自覚的であるように見える。その後『子羊の巣』『動物園の鳥』と書き継がれるシリーズの中で、本当に「僕」は鳥井から子離れできるのか。シリーズの見どころの一つだ思う。BS朝日でテレビドラマ化もされているみたいなので、興味ある人はそちらもぜひ。