虚構への供物 中井英夫『虚無への供物』

 曽祖父が狂死、祖父は函館の大火で焼死、両親は昭和29年の洞爺丸沈没事故で溺死、氷沼家の暗い歴史に怯える蒼司、紅司兄弟、従妹の藍司の不安が現実のものとなる。密室状態の風呂場で紅司が変死、さらに叔父の橙二郎も密室でガス二より死亡。ことは紅司が生前語った推理小説『凶鳥の黒影』の構想通りに進んでいるように見えたが…。
『虚無への供物』を普通の推理小説だと思って読み始めて、かなりとまどった。内外の推理小説に対する言及、複数の探偵役による推理合戦など、過剰なほど饒舌な本書は作者中井英夫が言うように「アンチ・ミステリー」である。言及される作家や作品は有名どころだけでも江戸川乱歩久生十蘭夢野久作コナン・ドイルヴァン・ダインディクスン・カー、ロナルド・ノックス『探偵小説十戒』『四つの署名』『アクロイド殺し』『黒死館殺人事件』などなど挙げていればきりがない。
 中でもポーの「赤死病の仮面」と密室殺人の古典的名作『黄色い部屋の謎』は、単に言及されるだけでなく、ストーリー展開そのものの鍵となっているし、蒼司と紅司が『不思議の国のアリスごっこをしてワトスン役の亜利夫をからかうような場面もある。
「お前、床屋に行かなくちゃ」(「髪を切ったほうがいいね」帽子屋がいった)「うるさいな。人のことは放っといてもらいたいね」(「ひとのあら探しはしちゃいけないんだわ」アリスはつんとしていった)「もう何時でしょう」(「今日は何日かね?」)「蒼司兄さんの時計は、いつも十時三十九分でとめてあるんだよ」(「でもそれは、一年がずうっと長いあいだ同じ年のままだからです」)(( )内は柳瀬尚紀訳『不思議の国のアリス』より)
これは極端な場面にしても、『虚無への供物』のストーリー展開、密室殺人のトリック、作中人物のセリフなどは、先行作品の引用と参照によって成り立っている。
 もちろん「意外な真犯人」が明らかにされて物語は幕を閉じるが、探偵役を演じた複数の作中人物による推理合戦を読んだ後では、「意外な真犯人」でさえ彼らの推理になる犯人像によって相対化されてしまうような気がする。ホームズのような抜群の頭脳が鮮やかに真犯人を指し示して見せる推理小説の古典とは異なり、『虚無への供物』には複数の探偵と複数の犯人がいるというのが、ぼくの読み方。推理小説というジャンルで遊べるだけ遊んだ『虚無への供物』は、このジャンルへの作者の敬意も含めて虚構への供物である。それだけに「意外な真犯人」が最後に感傷的告白をしながら、自分の犯罪を正当化しようとしたのは、この長い小説に付き合ってきた読者として、ちょっと残念だった。