読書という快楽の果て アンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』

 

 ※以下、犯人は明かしませんが、『カササギ殺人事件』の小説構成上、未読の方は知らないほうがいい内容を含みます。ご注意ください。

 

 夢中で読んだ。楽しんだ。そして、最後は考えさせられた。ミステリの熱心な読者というほどではないが、ときどきひっそりとたたずむ豪壮な洋館とか「さて、お集りのみなさん」なんて探偵がやり出すシーンとか無性に恋しくなる。推理小説を読みたくなる気分というのはどんなものだろうか。決して推理小説をはじめとする娯楽小説を貶める意図はないが、お決まりの筋立てを探偵役とその相棒とともに探索し、意外な犯人にたどり着く快楽、犯人は意外ではあっても、推理小説の世界は読者を揺さぶったりはしない。いや、そうでないミステリがあるのを僕は知っている。知っているが、多くのミステリは娯楽として消費される。出版社から見れば、純文学などと違って、確実に売り上げを期待できる「商品」だ。

 アンソニーホロヴィッツの『カササギ殺人事件』は、そうした推理小説アイデンティティを問う推理小説である。推理小説として読者を十二分に楽しませながら、推理小説の枠組みそのものを揺さぶってくる。アンソニーホロヴィッツはそんな離れ業を やってのけている。驚かされるのは、それが技巧のための技巧に終わらず、推理小説を書く作者の内的な必然性に端を発していることだ。この複雑な読後感は、読者にこれまでの読書体験を振り返らせる力を持っている。

 編集者スーザン・ライランドは自宅で『カササギ殺人事件』のプリントアウトされた原稿を読み始める。世界各国で愛された名探偵アティカス・ピュントシリーズ第九作。しかし、『カササギ殺人事件』は「まさにわたしの人生のすべてを変えてしまった」「わたしとちがって、あなたはちゃんと警告を受けたことは忘れないように」

 この導入部の後、作中の作家アラン・コンウェイによる『カササギ殺人事件』が始まる。これがいわば第一部で、イギリスの小さな町にあるパイ屋敷で起こる不可解な死をめぐる物語が展開する。第一部はまさにアガサ・クリスティーへのオマージュともいうべき小説世界で、ある種の既視感とともに安心の読書ができる。

 しかし、小説は第二部に至って、太平の眠りをさます大事件が起こる。スーザンが読んでいたアラン・コンウェイの『カササギ殺人事件』は、犯人を明かす結末の部分が欠落していたのである。第二部は編集者スーザンが探偵役となり、アラン・コンウェイの欠落している原稿を探すという展開になる。

 僕はアンソニーホロヴィッツの『カササギ殺人事件』が入れ子構造になった二部構成であることを知らずに読んでいたので、「ええ!」となり、そのあと推理小説を読むとはという問いかけに至ったというわけだ。

 正直に言うと、アラン・コンウェイの『カササギ殺人事件』を普通に最後まで読ませてくれという気持ちが強かった。でも、それは編集者スーザンだって同じでである。これが『カササギ殺人事件』が浮き彫りにする「快楽としての読書」にほかならない。作者アンソニーホロヴィッツは、突然断ち切られた第一部を目の当たりにした読者が複雑な気持ちになることは計算済みである。その気持ちとともに欠落した原稿をスーザンとともに探すのであるが、最後まで読んでしまうと、何とも言えないせつない気持ちになった。最終的に読者がスーザンともにたどり着くのは、読書という快楽の果てである。

 3つの視点がある。読者、作者、それに出版社。アンソニーホロヴィッツは『カササギ殺人事件』において、これら3つ視点からミステリのありようを根底から揺さぶってみせたのである。読者はそれをむさぼるように消費し、出版社は確実な「商品」としてシリーズを続けることを作家に強要する。そして作者は自分が生み出したはずの探偵を憎むようになる。これはコナン・ドイルシャーロック・ホームズアガサ・クリスティーエルキュール・ポアロの関係を思い出せばわかることだ。

 作中の作家アラン・コンウェイサルマン・ラシュディのような難解な文体の純文学を書いて、アティカス・ピュントシリーズの出版元に出版を断られていたというエピソードは、それが「駄作」だったかどうかは別にして、「ほんとうに書きたいもの」というオブセッションのようなものを感じさせる。アラン・コンウェイのアティカス・ピュントシリーズは、彼が「ほんとうに書きたいもの」に至る大きな障害のように見えていたに違いない。また文庫本の著者紹介欄を見ると、アンソニーホロヴィッツ自身が「自分の作品」を書くだけでなく、ホームズや007シリーズの財団公認の「続編」を書いており、著者の経歴が『カササギ殺人事件』のアラン・コンウェイという人物造形に著者の体験が影を落としていると見ることもできる。

 そうした裏事情をたった一言のアナグラムで可視化した『カササギ殺人事件』は、これを読んだらもう元には戻れないとても危険な書物である。「読む」ことの快楽と危険性という原点を破綻のない娯楽として提供するアンソニーホロヴィッツのしたたかさに舌を巻く。もうだれも「幸せな読者」ではいられないのである。小説の最後に出てくるスーザンの述懐は、まさに「読者」の気持ちを代弁している。しかし、冒頭の警告を無視して『カササギ殺人事件』を読んだのはこの僕だ。あの警告は伊達ではないということは言っておきたい。