GOD登場 筒井康隆『モナドの領域』

虚人たち』『夢の木坂分岐点』『朝のガスパール』『パプリカ』など、筒井康隆はこれまでずっと虚構と現実がせめぎ合い、虚構が現実を圧倒する瞬間を捉えようとしてきた。もちろん筒井康隆の仕事は幅広く、初期のブラック・ユーモアやナンセンス作品(「バブリング創世記」「死に方」)や、川端賞受賞作「ヨッパ谷への下降」などの異色作、さらに『文学部唯野教授』の文学論小説、『ロートレック荘殺人事件』の奇抜なトリックなど、旧来のジャンルに収まらない作品を次々に発表してきた。
「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長編」という最新作『モナドの領域』の帯の惹句。長年の筒井ファンなら、手に取らずにはいられないだろう。読み終わった今、思うのは、確かに筒井康隆は『モナドの領域』において、空前絶後の文学的冒険を試みたということだ。GODの登場。全知全能「神以上の存在」という作中人物を小説で描くことができるのか、できたとして、それはおもしろいのか。
 さっきも言ったように、筒井康隆の仕事は幅広いが、その核心の部分にあるのは、「現実」というすでにできあがったもの、時間や空間に制約を受ける私たちの生そのものの一回性に対する強い疑問である。主人公がくりかえし生の分岐点に立つ『夢の木坂分岐点』、虚構の軍隊が現実になだれ込む『朝のガスパール』、夢が現実を圧倒する『パプリカ』は、読む者に強く今見ているものに対する認識の変更を迫ってくる。ところが『モナドの領域』に登場するGODは言う。すべてはモナドにおいて決まっているのであり、プログラムされていることなのだと。一見、これまでのメタフィクションと逆を行くようなGODの発言には、どんな意図があるのだろうか。
 GODの登場に当然、世間は大騒ぎになる。ついにはGODはテレビの討論番組にまで出演することになる。小説の中ので世間が知りたがっているのは、なぜGODがこの世に現れたのかということ。しかし、読者が知りたいのは、GODの小説的役割である。つまりこの『モナドの領域』には、作中における現実へGOD効果と、メタレベルの小説そのものにもたらされるGOD効果があることになる。ここまで来ると、筒井康隆が小説にGODを導きいれた意図が明らかだろう。GODは、作中レベルのことはもちろん、小説そのものメタレベルにまで言及できる存在なのである。「お前さんたちだってわかってるじゃないか。これが小説の中の世界だってことが」ここまでなら驚かない。これはずっと筒井がやって来たメタフィクションのバリエーションだ。驚くのは、次のGODの言葉だ。「逆に言えばだよ、われわれの世界から見れば、これを読んでいる読者の世界こそが可能世界のひとつだということになる」
 ここで初めてGODの言葉の射程は、作中、さらに小説を超えて、この本を手にするぼくにまで届く。GODによって相対化され、ありうる現実の一つでしかないと指摘されたのは、ぼくを含めた読者なのである。筒井康隆は、きっとこの一言のために、ずっと小説を書いてきた。そして、ついに言葉を現実に届かせるという奇跡をやって見せたのである。「お前さんたちの絶滅は実に美しい」というGODの言葉は、小説の世界を超えて、この現実に届く。GODの言葉を聞け。