人はなぜ遅れるのか 夏目漱石『それから』

 いきつけの飲み屋のおにいさんが「小説って10代の主人公が多いでしょ」と言ってきた。自分と同じ30代が主人公の小説を教えてほしいという。確かに30代の主人公というのは、少ないかもしれない。小説というのは、極端な話、未熟な者が経験を積んでかしこくなるか、老いた者が自分の人生を回想するかのどちらかだ。こういう質問は萌える。しかし、とっさに思いつかない。『1Q84』の天吾? いろいろ考えて、結局、あてずっぽうで『それから』と答えた。
 長井代助(30歳)は、仕事をせず、本を読んだり、散歩したり、親の金で気ままな生活を送っている。食うために働くのをいやしいことだと考え、無職である自分は「上等人種」だと思う。そんな代助と対照的なのが、学生時代からの友人平岡だ。平岡は勤めていた銀行を首になり、妻三千代とともに帰京。東京での新居や職探しに奔走している。代助は平岡と三千代が結婚する前から二人の友人であり、平岡と三千代の縁談の世話もした。しかし、代助と平岡は会うたびに、お互いの考え方が大きく違ってしまったことを感じ、互いに苦々しく思っている。そんなとき代助に縁談話が持ち上がる。代助はそれを断ろうとするが、なぜだと問われたとき、頭に浮かんだのは三千代のことだった。
 代助はいわゆるダメ男。それは彼が働かないからでも、結婚しないからでもない。目的のための行為は堕落だなどと考えながら、自分が最も必要とするものから目を背け続けてきたからである。しかし、同時に自分が最も必要とするものから逃げ切れるものではない。いつか必ずそれと対決する日が来る。問題はそのタイミングだ。いつかいつかと言いつつ、時は流れ、好機を逃す。そして、遅れる。
 柄谷行人は「自然」と「制度」の対立が最も鮮明にあらわれるのは「姦通」であるとし、漱石が『それから』において初めて「姦通」という主題に取り組んだことを重要視している(文庫解説)。これを「遅れ」という観点から考えてみよう。代助が、父親や兄らのように成功した実業家として制度の中で生きることができるなら、「遅れ」は生じない。意識下の遅れは遅れとして表面化しない。代助が彼らを内心軽蔑しているのは、彼らが自分を偽っていると感じるからである。しかし、その一方で自分の「自然」との回路がいつも通じているわけではない。
 人は自分にとって最も本質的なものから時に目をそらし、時にうっかり忘れてしまう。そういう作為的な延命措置にも似た行為が行われるのは、自分にとって最も大事なものが露わになるのは、決定的なこと、何やらとても恐ろしいことだからである。こうした近代人の心のありようは、「遅れ」という形で表面化する。「遅れ」は、ある意味、必然なのである。このような遅れを漱石は「姦通」として劇的に表現した。
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」三千代に自分の思いを打ち明けることを決めた代助は思う。
「何故棄ててしまったんです」
 三千代にとって、代助の自分に対する恋心は、自明のことだった。
「僕は一寸職業を探して来る」という代助の最後の言葉には、ただ一言「遅い!」とつっこむしかない。