幽霊とリアリズム 三遊亭円朝『怪談牡丹燈籠』(かいだんぼたんどうろう)

 カランコロンと下駄の音をさせながら、旗本の娘お露の幽霊が恋人萩原新三郎のもとにやってくる…。三遊亭円朝の『怪談牡丹燈籠』は、この有名な幽霊話と、孝助の仇討ちの顛末が交互に語られる。人物関係がややこしく、複数の話をくっつけた感のある『真景累ヶ淵』に比べると、すっきりした構成でわかりやすい。仇討ちに関しては、『真景』で「因果はめぐる」として紹介したので、幽霊話のほうを取り上げてみたい。
 お露は、美男萩原新三郎に恋焦がれる想いが募り、焦がれ死にする。お露と新三郎はたった一度会ったきりである。「互いにただ手を手拭の上から握り合ったばかりで、実に枕を並べて寝たよりもなお深く思い合いました」という。「あなたまた来てくださらなければ私は死んでしまいますよ」というお露のことばが本当になったわけだが、お露は死んで自由なって新三郎に会うという方法を選んだとも言える。お露が会いにくる最初の場面。
「(…)冴え渡る十三日の月を眺めていますと、カラコンカラコンと珍しく下駄の音をさせて生垣の外を通るものがあるから、ふと見れば、先きへ立ったのは年頃三十位の大丸髷の人柄のよい年増にて、その頃流行った縮緬細工の牡丹芍薬などの花の附いた燈籠を提げ、その後から十七、八とも思われる娘が、髪は文金の高髷に結い、着物は秋草色染の振袖に、緋縮緬長襦袢に繻子の帯をしどけなく締め、上方風の塗絵の団扇を持って、ぱたりぱたりと通る姿を、月影に透かし見るに、どうも飯島の娘のお露のようだから(…)」
 思わずため息がでるような美しさ。その後新三郎のもとにお露はしばしば通ってくるようになる。ところが、占い師に死相が出ていると言われた新三郎は、お寺で死霊除けのお守りやお札をもらってくる。あちこちに貼っておくとお露は部屋に入れない。お露は「あれほどまでにお約束したのに、今夜に限り戸締りするのは、男の心と秋の空、変り果てたる萩原様のお心が情ない」と悔しがる。
 このままだともちろん入れないのだが、この死霊と取引しようとという者が現れる。新三郎の身の回りの世話をしている伴蔵という男、百両くれるなら、お札をはがして差し上げましょうというのである。結果、新三郎はたたられて死ぬわけだが、その後この幽霊話は、伴蔵の告白によって、すべてでっち上げであり、伴蔵はただ新三郎を殺し、盗みを働いたことが明らかになる。幽霊話は、伴蔵が悪事が発覚しないよう流したうわさにすぎないというのである。
 これを初めて読んだときは、冷や水を浴びせられたような気がした。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」を地で行くような話だが、ほんとうにそう解釈していいのだろうか。円朝がここに仕掛けたトリックは、そんなに単純なものではない。ぼくらはきっとこの伴蔵の告白にもだまされている。
『怪談牡丹燈籠』の幽霊話は、ある出来事をどのように解釈するのかという深い洞察が含まれている。どちらかが真実で、どちらかがうそということではなく、伴蔵が悪事をあらいざらい白状したあとも、お露の幽霊はやはり新三郎に焦がれてカランコロンと会いに行く。円朝は、同じ出来事の二面性を鮮やかに描いている。