「語り」の奥深さ 幸田露伴『幻談・観画談 他三篇』

 幸田露伴と言えば、初期の傑作に『五重塔』がある。大工として優れた技量がありながら、世知に疎く「のっそり」と呼ばれ、下請け仕事に甘んじていた十兵衛が五重塔建立という一世一代の大仕事を成し遂げるといういかにも小説らしいストーリーと格調高い擬古文で知られる名作。しかし、本書解説の川村二郎によると幸田露伴が小説らしい小説を書いたのは明治末年頃までで、それ以後はフィクションともエッセーとも小説とも考証ともつかぬ作品が多くなるという。その理由として川村は当時、文壇の主流が自然主義リアリズムだったこと、形式へのこだわりが薄れ、物語の体をなしているかどうかは二義的な問題だと露伴が考えるようになっていったことを挙げている。
 本書収録作のうち「幻談」「骨董」「魔法修行者」の三篇は特に悠揚迫らぬ「語り」が印象的な作である。
「こう暑くなっては皆さん方があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼しい海辺に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤もです。が、もう老い朽ちてしまえば山へも行かれず、海へも出られないでいますが、その代わり小庭の朝露、縁側の夕風ぐらいに満足して、無難に平和な日を過ごして行けるというもので、(…)」(「幻談」)
 いつまでも引用していたくなる「語り」を一言で形容するなら洗練ということになるだろう。斎藤茂吉は「このくらい洗練された日本語はない」と評し、川村は米の栄養分をほとんどそぎ落とすことによって醸された最上の吟醸酒にたとえている。なるほど吟醸酒とはうまいことをいったもので、米をそぎ落とし、雑味を取り除いたところに薫り高い酒ができる。つまり洗練とは、取り除かれたもの、捨てられたものが相当あるということだが、露伴の「幻談」を読んでいると、洗練された文章から自然とそぎ落とされたものの大きさ、深さといったものを想像させずにはおかない。むしろ、それを読み手に想像させること、それが露伴の「語り」の最大の魅力ではないだろうか。
 川村が言うように本書に収録されている作品の中で一番小説らしい作品は「観画談」。病を得た主人公が療養の目的で訪れた山間の寺で偶然目にする画に人生の意味を直感してしまうという話は、奇譚としても、上昇志向のあった作中人物がその後、ごく平凡な人生を送ったといういわゆる教訓話としても読めるが、いずれにせよ作のモチーフ、あるいは指向といったものが読み取れる。物語とはそういうものではないかと思う。主人公をはじめとする作中人物がいて、出来事の展開があり、テーマがある。程度の差こそあれ、読み手は何らかのメッセージを受け取るのである。
 それに対して露伴の「語り」には、洗練はあっても、「言いたいこと」などないのではと思わされる。不思議なもので、小説として形を整えるためにそぎ落とされたものは、事後にそれが何か想像することは難しいが、「語り」のほうは、行間からそぎ落とされたものがにじみ出るような気がする。いや、そんなものは恣意的な想像にすぎないと言われたらそれまでだが、吟醸酒など、そのようにして飲んで初めてうまいものだと言えるのではないか。
「幻談」の閑職に追いやられ、釣りに明け暮れる侍と供の船頭が見つける滑稽とも不気味ともつかない出来事は、底知れぬ深みを感じさせるし、「魔法修行者」の一人細川政元はむざむざと暗殺されてしまうが、それでも二十年も魔法の修業を続けていた人であり、「倦まぬだけのものを得ていなくては続かぬ訳だった」と言われると、書かれていないにせよ、何らかの技を習得していた政元を想像してしまう。即興のように予定調和を持たない「語り」のおもしろさを堪能させてくれる作品集。