女と男、ふたつの『櫻の園』 吉田秋生『櫻の園』

 中原俊の映画『櫻の園』(1990)は、思春期の瞬間を結晶させたような透き通った美しさを感じさせる青春映画の傑作だ。その原作である吉田秋生の『櫻の園』を読んで、「女」と「男」という途方もなく古典的な対比を考えさせられた。白泉社文庫版に中原俊が書いている解説を読んでも、中原が吉田秋生の『櫻の園』に心酔していることは疑いがない。しかし、原作漫画『櫻の園』を映画化するにあたり中原俊が行った原作の改変は、映画という異なるメディアに移し替えるために必要な作品改変以上のことだったのである。その違いとは何か。キーワードはけがれと透明感。
 桜の木に囲まれた高台にある女子高桜華学園では、毎年創立記念日に演劇部がチェーホフの『櫻の園』を上演する伝統があった。漫画『櫻の園』は「花冷え」「花紅」「花酔い」「花嵐」の四つの章からなり、それぞれの章に一人の演劇部員が取り上げられ、思春期特有の人間模様や悩みが描かれている。もちろん、恋の悩みもあるし、実際にボーイフレンドも登場する。キスやセックスもする。しかし、漫画『櫻の園』で特徴的なのは、女としての生きづらさが描かれている点である。もっと言えば、漫画『櫻の園』で女子高生たちが悩むのは、女であることの罪やけがれの認識である。部長の志水由布子は小6のとき親戚のお兄ちゃんに言われた「おませさんだね、ユーコちゃんは」という一言が忘れられない。「『ませている』という一言は決定的な罪悪感を私の心に植え付けた」(「花酔い」)あるいは、倉田知世子は、初潮を迎えた日のことを回想する。「紅いクレヨンですうっと掃いたように下着を汚したあざやかな紅を今もはっきりと覚えている/お風呂場で何度も体を洗った/洗いながら泣いた」(花紅)
 このように漫画『櫻の園』では、女であることの罪やけがれを背負わされる社会とどう折り合いをつけて生きていくのかというけっこう重い、そして男性からは見えにくいテーマが描かれているのだ。漫画『櫻の園』は、そういう意味でまさに女の園が描かれていて、女子高の中に男性は入れない。アーニャ役の中野敦子の姉とその婚約者が少し遅れて上演会場にやってくると、入口の扉はすでに閉まっている。漫画『櫻の園』はそういう潔癖さがある。志水由布子は倉田知世子への思いを万葉集の歌を引いて、倉田の机に書きつける。
「風に散る花橘を袖に受けて君が御跡と思いつるかも」
 この片思いのせつなさと潔癖さがないまぜになったような感じが漫画『櫻の園』の雰囲気を形作っている。彼女たちはみな何もごまかしたくないのだ。
 吉田秋生の漫画『櫻の園』と中原俊の映画『櫻の園』の最大の違いは、けがれの有無だ。最初に書いたように、透き通った結晶のような奇跡の映画だと思うけど、つまりそれは、吉田秋生が描こうとしたけがれとの葛藤をきれいに拭い去ったということだ。映画『櫻の園』の冒頭は、漫画には登場しない舞台監督の部員が彼氏を稽古場に連れ込んでいちゃつくシーンから始まる。いとも簡単に「櫻の園」に男が入り込んでいるわけだが、中原版『櫻の園』は、吉田版『櫻の園』から潔癖さをなくして、けがれを拭い去ることで透明感を出した。かくして男の鑑賞の対象としての女が登場する『櫻の園』が完成した。中原俊が、この改変を意図的に行ったのか否かはわからない。いずれにせよ、女版と男版、ふたつの『櫻の園』がある。