みんな「手なし娘」を読むといい 河合隼雄『昔話と日本人の心』
『昔話と日本人の心』は、河合隼雄の数多い著作の中でもとくに名著として名高い。河合は、西洋の近代的自我の成立過程を解き明かしたユング派分析家エーリッヒ・ノイマンの『意識の起源史』における方法論を援用しながら、日本の昔話を分析することで、日本人のアイデンティティの探ろうとしている。ただし、河合はノイマンの方法論をそのまま日本の昔話分析にあてはめるわけではなく、独自の方法を見出すことも本書の狙いであるとする。まず、西洋における自我は神話や昔話の英雄に象徴されるように男性像によって表されるが、それに対して河合は日本人の自我は女性像で示すのが適切であるという。また、印象的なのは、「抽象的な議論よりも、ともかく昔話のもつ直接的な衝撃力に触れることの方が、説得力が第である」(第1章)という河合隼雄の昔話に対する姿勢である。確かにぼくは「手なし娘」を読んで、言葉にならないほど大きなショックを受けた。この昔話の存在を知るだけでも『昔話と日本人の心』を読む価値がある。
他界から現れては消える女性像。これが河合の考える昔話にみる日本人の自我のありようであり、「うぐいすの里」「飯くわぬ女」「鶴女房」「手なし娘」「炭焼長者」などの昔話をたどりながら、はかなく消える女から、うらみを抱く女、耐える女を経て、意志する女に至る過程を浮き彫りにしている。
「うぐいすの里」では、女の禁止を破り座敷の中をのぞいたうえ、たまごを壊してしまう男に「人間ほどあてにならぬものはない、あなたはわたしとの約束を破ってしまいました。あなたはわたしの三人の娘を殺してしまいました。娘が恋しい、ほほほけきょ」と言い残して姿を消す。「日本の昔話の特徴をよくそなえている」という「うぐいすの里」は、あわれの美意識を体現しており、その成立のためにはくりかえし女が消え去らねばならず、河合はこれを日本文化の宿命としている。
他界(無意識の世界)に消えた女性は何度でも戻ってくる。あるときは、「飯くわぬ女」のような山姥として、またあるときは「鶴女房」のような異類のものとして。しかし、問題は、彼女らがこの世に留まろうとしたときである。
「手なし娘」では、継母に嫌われた娘が家を追い出され、山の中で実の父親に斧で切り付けられる。祭りを見に行くと言われて家を連れ出された娘が歩き疲れて、昼飯を食べた後、居眠りを始めた。
「それを見ると、父さまはこのときだと思って、腰にさしていた木割で、かわいそうに娘の右腕から左腕まで切りおとして、泣いている娘をそこに残して、ひとりで山を降りてしまいました。『父さま、待ってくなされ、父さま、いたいよう』といって、娘は血まみれになって、ころげながら後を追いかけて行きましたが、父さまは後も見ないで行ってしまいました」
ここから娘の苦難の運命が始まるのだが、彼女がこんなにも苦しまねばならないのは、逃げないからである。「ほほほけきょ」と一声鳴いて、この世から姿を消すことができれば、このような七転八倒の苦しみを味わうことはない。しかし、苦難の末、娘はこの世に自分の居場所を作ることに成功する。それは優しい若者とその母親の助けがあったからだが、河合は第9章「意志する女」において、ついに自分の意志で伴侶を選ぶ女の姿を見出すことになる。女は、生まれる前からの許嫁と別れ、貧しい炭焼き男に「わたしの望みだから、ぜひ嫁にして下され」という。感動的な一言である。
『昔話と日本人の心』は、複数の昔話にみる女性像のありようを通じて、日本人の自我確立のストーリーを再構成しているわけだが、河合も指摘しているように、これは「発達段階」というよりも「発達状態」として受け止められるべきことであり、したがって、私たちの文化では、やはりどこかで「ほほほけきょ」と鳴いている女がいて、「手なし娘」の地獄の苦しみを味わっている女がいるのである。
ここからは、ぼくの勝手な連想になるのだが、戦後、成瀬巳喜男、木下恵介、小津安二郎(さらに『祇園の姉妹』の溝口健二、『洲崎パラダイス赤信号』の川島雄三を加えてもいいが)、こうした映画監督たちが、くりかえし女の受難の物語を撮り続けたのは、あたかも戦後の日本人のアイデンティティを問い直す試みであったかのような錯覚さえ覚える。つぎつぎに男に裏切られる『女が階段を上る時』、二人の男に愛され、引き裂かれるような思いをする『遠い雲』、そうしたデコちゃんの苦悩を経て、『麦秋』で子持ちの男と結婚を決めた原節子は言う。「子どもくらいある人のほうが却って信頼できると思うのよ」
これは「炭焼長者」の女が決められた男をふって、炭焼きに結婚を申し込むのにぴたりと重なるせりふである。しかし、これでめでたし、めでたしではない。ぼくらはみんな一度は意志して選ぶことによりアイデンティティを形成するからだ。一度は「手なし」の苦しみを通過する。だから、みんな「手なし娘」を読むといい。
他界から現れては消える女性像。これが河合の考える昔話にみる日本人の自我のありようであり、「うぐいすの里」「飯くわぬ女」「鶴女房」「手なし娘」「炭焼長者」などの昔話をたどりながら、はかなく消える女から、うらみを抱く女、耐える女を経て、意志する女に至る過程を浮き彫りにしている。
「うぐいすの里」では、女の禁止を破り座敷の中をのぞいたうえ、たまごを壊してしまう男に「人間ほどあてにならぬものはない、あなたはわたしとの約束を破ってしまいました。あなたはわたしの三人の娘を殺してしまいました。娘が恋しい、ほほほけきょ」と言い残して姿を消す。「日本の昔話の特徴をよくそなえている」という「うぐいすの里」は、あわれの美意識を体現しており、その成立のためにはくりかえし女が消え去らねばならず、河合はこれを日本文化の宿命としている。
他界(無意識の世界)に消えた女性は何度でも戻ってくる。あるときは、「飯くわぬ女」のような山姥として、またあるときは「鶴女房」のような異類のものとして。しかし、問題は、彼女らがこの世に留まろうとしたときである。
「手なし娘」では、継母に嫌われた娘が家を追い出され、山の中で実の父親に斧で切り付けられる。祭りを見に行くと言われて家を連れ出された娘が歩き疲れて、昼飯を食べた後、居眠りを始めた。
「それを見ると、父さまはこのときだと思って、腰にさしていた木割で、かわいそうに娘の右腕から左腕まで切りおとして、泣いている娘をそこに残して、ひとりで山を降りてしまいました。『父さま、待ってくなされ、父さま、いたいよう』といって、娘は血まみれになって、ころげながら後を追いかけて行きましたが、父さまは後も見ないで行ってしまいました」
ここから娘の苦難の運命が始まるのだが、彼女がこんなにも苦しまねばならないのは、逃げないからである。「ほほほけきょ」と一声鳴いて、この世から姿を消すことができれば、このような七転八倒の苦しみを味わうことはない。しかし、苦難の末、娘はこの世に自分の居場所を作ることに成功する。それは優しい若者とその母親の助けがあったからだが、河合は第9章「意志する女」において、ついに自分の意志で伴侶を選ぶ女の姿を見出すことになる。女は、生まれる前からの許嫁と別れ、貧しい炭焼き男に「わたしの望みだから、ぜひ嫁にして下され」という。感動的な一言である。
『昔話と日本人の心』は、複数の昔話にみる女性像のありようを通じて、日本人の自我確立のストーリーを再構成しているわけだが、河合も指摘しているように、これは「発達段階」というよりも「発達状態」として受け止められるべきことであり、したがって、私たちの文化では、やはりどこかで「ほほほけきょ」と鳴いている女がいて、「手なし娘」の地獄の苦しみを味わっている女がいるのである。
ここからは、ぼくの勝手な連想になるのだが、戦後、成瀬巳喜男、木下恵介、小津安二郎(さらに『祇園の姉妹』の溝口健二、『洲崎パラダイス赤信号』の川島雄三を加えてもいいが)、こうした映画監督たちが、くりかえし女の受難の物語を撮り続けたのは、あたかも戦後の日本人のアイデンティティを問い直す試みであったかのような錯覚さえ覚える。つぎつぎに男に裏切られる『女が階段を上る時』、二人の男に愛され、引き裂かれるような思いをする『遠い雲』、そうしたデコちゃんの苦悩を経て、『麦秋』で子持ちの男と結婚を決めた原節子は言う。「子どもくらいある人のほうが却って信頼できると思うのよ」
これは「炭焼長者」の女が決められた男をふって、炭焼きに結婚を申し込むのにぴたりと重なるせりふである。しかし、これでめでたし、めでたしではない。ぼくらはみんな一度は意志して選ぶことによりアイデンティティを形成するからだ。一度は「手なし」の苦しみを通過する。だから、みんな「手なし娘」を読むといい。