私(たち)の記憶 磯﨑憲一郎『往古来今』
こんな遠くまで行くのかという驚きとともに磯﨑憲一郎の『往古来今』を読み終えた。「私」の記憶が、「私たち」の記憶になり、世界へと移り変わっていく。
『古今往来』ではなく、『往古来今』。単行本の帯には「往古来今」という四字熟語の説明がある。「連綿と続く時間の流れ」「時間と空間の限りない広がり」をいう。まさに時間と空間を自在に行きつ戻りつする本書は「過去の話」「アメリカ」「見張りの男」「脱走」「恩寵」の五篇が収録された連作短編集。「往」「古」「来」「今」の四字が、勝手気ままに動き回ったあと、収まるべきところに収まったという感がある。
語り手である「私」は、高校時代の思い出や二十歳の頃、失恋後にした旅の記憶などについて語るが、話は次第に遠くへ跳躍しはじめる。商用で訪れたハワイやドバイの超高層ビルにあるホテルの話が語られたかと思うと、再び母親との思い出にもどったりする。こうした「飛躍」は、次第に時間、空間の振り幅を大きくしていく。仕事で移住したアメリカで「私」が娘と公園を散歩していたかと思うと、突然視点人物がマシューという男に変わり、娘を連れだして家を出たりする(「アメリカ」)。
ここに現れる「ハワイ」「移住」「家出」「放浪」などのモチーフは、あとの作品でさらにハワイへ移住した日本人たちの苦難の歴史(「恩寵」)や50歳になった「私」の突然の出奔、山下清の放浪(「脱走」)などにつながる。『吾妻鏡』の領主、元力士の郵便配達夫など故郷にちなむエピソードが語られる「見張りの男」の最後に次のようなくだりがある。
「理解者は往々にして遠くにいる。私たちは百年前にプラハに生きた一人の人物を知っている(…)家族の、とりわけ父親の恐ろしい無理解に苦しめられていたにもかかわらず(…)」
この「一人の人物」がカフカであることは、次の「脱出」で言及される。「理解者は往々にして遠くにいる。確かにそうだ、しかしそれが空間的にも、時間的にも私の知り得ぬほどの遠くであるならば、果たしてそれは遠くと言えるのだろうか? 理解者と言えるのだろうか?」という「私」の問いかけは、読者の空間、時間、意味の遠近感を揺さぶってくる。
さっきぼくは「飛躍」と書いたが、そうではないのかもしれない。文庫解説の金井美恵子は、カフカの「世界と君との戦いでは世界を支援せよ」という言葉を引く。ここでいう「世界」が私たちにとって避けようもないものなら、そこに生きる人々は、おしなべて「私」なのだと極論することもできる。
磯﨑憲一郎は「段差や転調を作者の意図として書かずにいかに前に進めるか、どこまで小説に忠実にいられるか、だけを考えていたように思う」とあとがきに書いている。ならばやはりこの「小説」は「世界」や「記憶」そのものなのだ。
『古今往来』ではなく、『往古来今』。単行本の帯には「往古来今」という四字熟語の説明がある。「連綿と続く時間の流れ」「時間と空間の限りない広がり」をいう。まさに時間と空間を自在に行きつ戻りつする本書は「過去の話」「アメリカ」「見張りの男」「脱走」「恩寵」の五篇が収録された連作短編集。「往」「古」「来」「今」の四字が、勝手気ままに動き回ったあと、収まるべきところに収まったという感がある。
語り手である「私」は、高校時代の思い出や二十歳の頃、失恋後にした旅の記憶などについて語るが、話は次第に遠くへ跳躍しはじめる。商用で訪れたハワイやドバイの超高層ビルにあるホテルの話が語られたかと思うと、再び母親との思い出にもどったりする。こうした「飛躍」は、次第に時間、空間の振り幅を大きくしていく。仕事で移住したアメリカで「私」が娘と公園を散歩していたかと思うと、突然視点人物がマシューという男に変わり、娘を連れだして家を出たりする(「アメリカ」)。
ここに現れる「ハワイ」「移住」「家出」「放浪」などのモチーフは、あとの作品でさらにハワイへ移住した日本人たちの苦難の歴史(「恩寵」)や50歳になった「私」の突然の出奔、山下清の放浪(「脱走」)などにつながる。『吾妻鏡』の領主、元力士の郵便配達夫など故郷にちなむエピソードが語られる「見張りの男」の最後に次のようなくだりがある。
「理解者は往々にして遠くにいる。私たちは百年前にプラハに生きた一人の人物を知っている(…)家族の、とりわけ父親の恐ろしい無理解に苦しめられていたにもかかわらず(…)」
この「一人の人物」がカフカであることは、次の「脱出」で言及される。「理解者は往々にして遠くにいる。確かにそうだ、しかしそれが空間的にも、時間的にも私の知り得ぬほどの遠くであるならば、果たしてそれは遠くと言えるのだろうか? 理解者と言えるのだろうか?」という「私」の問いかけは、読者の空間、時間、意味の遠近感を揺さぶってくる。
さっきぼくは「飛躍」と書いたが、そうではないのかもしれない。文庫解説の金井美恵子は、カフカの「世界と君との戦いでは世界を支援せよ」という言葉を引く。ここでいう「世界」が私たちにとって避けようもないものなら、そこに生きる人々は、おしなべて「私」なのだと極論することもできる。
磯﨑憲一郎は「段差や転調を作者の意図として書かずにいかに前に進めるか、どこまで小説に忠実にいられるか、だけを考えていたように思う」とあとがきに書いている。ならばやはりこの「小説」は「世界」や「記憶」そのものなのだ。