永遠と瞬間 ボルヘス『不死の人(エル・アレフ)』

 読んだ本の内容を忘れるのは、何もボルヘスの短編に限ったことではない。しかし、ボルヘスの短編は、記憶として保存されない何かを語っているような気がしてならない。17の短編が収められた本書『不死の人』は、『伝奇集』とともにボルヘスの代表作として名高い。
 ボルヘスは知的で端正な文体で、迷宮としての世界を描こうとする。ボルヘスの文学的な同志とも言えるイタロ・カルヴィーノは、ボルヘスの作品世界について、「厳格な幾何学に対応して黄道十二宮の星座がやどる、知性の空間の象徴であり類似である世界」(「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」以下の引用も同じ)だという。おもしろいのは、現代の文学の主流を「存在とか言語、できごとの組織構造や無意識の探索など、マグマ的な蓄積の代替物を読者にあたえようとする」ものだと言っているところである。ぼくはカルヴィーノのいう主流派の代表として村上春樹を思い浮かべたが、それはともかく、ボルヘスはこうした現代文学の主流とは「正反対の方向」に向かっていると述べている。
 作品が代替物ではないというのは、どういう意味なのか。それは、つまり作品が本質であるということだ。言葉によって構成された作品が世界そのものであるような小説がありうるとしたら、本を開いたときだけそこに存在し、本を閉じれば跡形もなく消滅するものでなければならない。
 一つは迷宮、または円環的世界。探偵小説的味わいを持つ「アベンハカーン・エル・ボハリー おのれの迷宮にて死す」は、自分の作り上げた迷宮めいた邸の中で殺されたアベンハカーン・エル・ボハリーの謎をめぐる物語。ポーの「盗まれた手紙」やザングウィルの密室などに言及する語り手は、しかし、「謎の解決はつねに謎そのものより劣る」と考える。一見合理的な解釈がなされるようでいて、追うものと追われるものがたがいに入れ替わる円環的世界を形作っている。
 もう一つは、ビジョンとしての自己像、世界。自分が何者であるかを一瞬うちに理解する「タデオ・イシドロ・クルスの生涯」、あるいは、友人宅の地下室で世界のすべてを見る「アレフ」。これらの短編は、そのつど起こる出来事のような味わいがある。タデオ・イシドロ・クルスは「他者こそがおのれであることを理解」するが、そのような永遠が瞬間であり、瞬間が永遠であるようなめまいのする感覚こそボルヘス体験なのだと思う。