「侮辱」というより「恥」 白井聡『永続敗戦論』

「私らは侮辱のなかに生きている」
 これは2012年7月「さようなら原発10万人集会」において、中野重治の言葉を引いた大江健三郎の発言だ。白井聡は、本書『永続敗戦論』の冒頭にこの言葉を置き、福島第一原発事故以来、生じている事態、次々に明るみに出る事実が示しているものは、大半の日本国民にとって「侮辱」と呼ぶほかないものだと述べている。震災と津波、そして原発事故は、「戦後」という一時代を終わらせた、言い換えれば、「平和と繁栄」という戦後を支えてきた物語が、実は欺瞞でしかなかったということを誰の目にも明らかにしたということである。その欺瞞の本質とは、何だろうか。
大日本帝国ポツダム宣言を受諾することで、戦争は日本の敗北によって終わった。にもかかわらず、この日は戦争の『終わった』日として認識されている。ここにすべてがある。純然たる『敗戦』を『終戦』と呼び換えるという欺瞞によって戦後日本のレジームの根本が成り立っている(…)」
 白井聡は、こうした欺瞞の上に成り立つ戦後を対米従属構造の永続化と敗戦の否認・隠蔽という二重化された構造として捉え、それを「永続敗戦」と呼ぶ。日本は第二次世界大戦の敗戦国であるという単純な事実を認めたくない人々が、今、この国の政治の実権を握っている。そして、彼らのような勢力を容認し支えているのはアメリカである。
 ぼくは前から、なぜ日本政府はここまでアメリカの言いなりになろうとするのか、とても不思議に思っていた。国益なんて言葉は使いたくないが、ひたすらアメリカさまの言うことを聞いておけばよいとする態度は、国益を損ないかねない、経済や国防といった観点から、大きな損失をもたらすのではないかと思っていた。しかし、「アメリカを背中に乗せて走る馬になりたい」とまで考える人が日本の政治家や官僚にいるとすれば、結局のところ、馬になれば少なくとも自分は守られる、白井聡の言葉を借りれば「永続敗戦の構造を維持でき、それに与ることができる」という利権の構造があるからだということになる。本書において白井聡は、領土問題、拉致問題、さらには戦前の「国体」がいかにして生き残り、戦後に「新しい国体」して再浮上したかといった問題を論じ、そうした問題の背後に「永続敗戦」構造があることを指摘する。
「戦後」という時代のありようが「永続敗戦」構造であるとして、重要な点は、本書でも「否認構造の限界」と「本音モード」への突入として指摘しているように、「戦後」がさまざなま形で終わろうとしているということである。それが端的に現れているのが、安倍内閣が矢継ぎ早に打ち出す政策だ。とりわけ、安全保障関連法案を、憲法を無視してまで成立させようとする政権の姿勢を見ていると、日本という国は、民主主義国家どころか独立国家でさえなかったのかなと思ってしまう。ここまで急ぐ理由はいろいろ言われているが、本音のところは、アメリカに見捨てられたらどうしようという恐怖感だけなんじゃないだろうか。しかし、その一方で安倍首相をはじめとする政権やその周辺の人々は、歴史修正主義者であり、「ポツダム宣言はつまびらかに読んでいない」のだから、おかしな話だ。
 平和とか安全とかいった物語にのっかってすっかり信じていた自分の、まぎれもない姿が、あれだよ。恥ずかしいと思わないといけないんだろうな、きっと。この状況が戦争によって変えられるというのは、最悪の結果だ。この結果を避けるため個人のレベルでできることは、何かを「信じる」のではなく、「考える」こと、露出した現実を直視することしかないと思う。