帝国と身体 J・M・クッチェー『夷狄を待ちながら』

 

  城壁に囲まれた辺境の町は帝国の首都から派遣されたジョル大佐により、その静寂が破られた。北方及び西方の夷狄(本書では遊牧民)に不穏な動きがあるといううわさが流れており、そうした夷狄の動きを探るべく、治安警察の最重要部門である第三局所属の将校がやってきたのだ。

 作者クッチェーは南アフリカのケープ州生まれであり、文庫解説の福島富士男は物語の設定を「18世紀末の東ケープの地誌を想起させる」としているが、物語上の「帝国」はあくまで架空のものだ。この物語も西欧諸国の帝国主義を背景にした植民地支配そのものが主題になっていると考えていいだろう。

 語り手の「私」は辺境の町で20年以上も民政官を務める男で、政務のかたわら先住民の遺跡発掘や狩猟の趣味を持っており、夷狄への警戒心は薄いが、ジョル大佐の登場によって辺境の事態は一変する。大佐がもくろむのは、夷狄への先制攻撃による捕獲作戦で、彼はそのために城壁の外に住む先住民を「夷狄」と称して捕まえては凄惨な拷問を加える。「私」は拷問によって引き出された証言に信憑性がないことを大佐に説くが、大佐は意に介さない。

「まず最初に嘘がある、そこで圧力をかける、するとさらに嘘が重ねられる、そこでさらに圧力を加える、と潰れる、そこでもっと圧力をかけ、それでやっと真実が得られるというわけだ」

 大佐が言っているのは、拷問による「真実」の捏造である。捕らえられたのが、夷狄かどうか、拷問の末、彼らの口から出た言葉が真実かどうかなどはどうでもよく、結局のところ、大佐をはじめとする首都から派遣される将校たちは、「帝国」という物語を維持するために、「敵」を再生産するという極めてシステマティックな作業に従事しているにすぎない。ジョル大佐は「帝国」という物語の暴力性が最も先鋭化したキャラクターだと言えるが、そこに驚きはない。

 ジョル大佐にとって、拷問は「帝国」という物語維持の手段にすぎないので、拷問された人間がどうなろうとかまわないわけだが、『夷狄を待ちながら』のおもしろさは、拷問によって生じたゆがんだ身体そのものを「帝国」という物語のいわばB面を象徴するものとして扱うところである。

 民政官の「私」は、あるとき、町なかで物乞いをする若い女に目を止める。女は大佐が連れてきた夷狄の一人で、拷問によって父親を殺され、彼女自身も目は半ば見えなくなり、両足はねじ曲がり二本の杖がなければ歩けなくなっていた。「私」は夷狄の女を官舎の料理女に取り立て、夜は自分の部屋へ来させるようになる。

「帝国」のふるまいの第一章が拷問だとすると、第二章は民政官である「私」と夷狄の女による奇妙なコミュニケーションだろう。「私」は部屋で女の体を洗い、無残にもねじ曲がった脚を愛撫する。その愛撫が「私」と女の間にある唯一の言葉であるかのように。「私」が夷狄の女に何を求めていたのか、心理的なことはさておき、「私」が女に行ったことは、「私」が帝国の民政官であり、女は北方の夷狄で拷問の刻印を深く刻まれた女であるという関係性ぬきには成立しない。

「私」が女を愛撫するのは、その抜きがたい帝国の刻印のせいである。事実、「私」は女が最初に官舎の中庭に連れてこられ、他の夷狄といっしょにいる場面をどうしても思い出すことができない。女がいたとおぼしい場所だけが、「私」の記憶の中で空白になっている。まるで帝国の刻印が体に刻まれるまで、女は存在すらしなかったと言わんばかりである。

 ジョル大佐と民政官「私」の違いは、「帝国」の暴力性に対して自覚的か否かということだろう。もう少し正確にいうなら、「私」は心の深層でしかその暴力性を認め得ないということだ。だからこそ、否応なく女に惹かれた。そして、己を愛撫するかのように女を愛撫した。それはジョル大佐らの暴力的なやり方に異を唱える民政官の言葉とは裏腹に、彼もまた「帝国」を背景にした暴力の行使に余念がなかった。

 支配構造を前提にした女の身体への執着は、おそらくさまざまな形で現れる。クッチェーが描いて見せたのは、そうした構造の中に生きることを余儀なくされた人々が背負うことになる生々しい身体への刻印とつかの間に生じるいつわりの(感傷的な)エロス的空間だったのではないだろうか。民政官はジョル大佐の拷問に反対する言動により危険思想の持ち主と見なされ、その地位を追われ、彼もまた拷問と民衆への見せしめの餌食になる。

 拷問が真実を暴く手段ではなく、「帝国」という物語を再生産する欺瞞でしかなかったように、民政官と夷狄の女の関係もまた民政官の幻想の中にしかなかったにちがいない。女はあっさり遊牧民の中へ帰っていった。まるで魔法が解けてしまったかのように、堅固な「帝国」のイメージが崩れた後に残るのは、むき出しにされてしまった「夷狄への恐怖」と彼らの襲撃におびえる民衆である。それは「帝国」という物語を信じ、支えてきた彼らが支払う応分の代償だと言えるだろう。

(8月15日訂正・加筆)