あの夏を抱えて カーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』

「こんな変な小説、読んだことがない」というのが、最初の感想だ。カーソン・マッカラーズという作家の名さえろくに知らず、名著の新訳・復刊を目指す新潮文庫の新シリーズ「村上柴田翻訳堂」の一冊として書店に並んでいるのを偶然手に取った。
 自分は世界のどこにも属していない。「緑色をした気の触れた夏」12歳の少女フランキーはそう考えた。彼女はいつもその夏、台所で黒人の料理女ベレニスと年下のいとこジョン・ヘンリーと三人で過ごしていた。そんなフランキーの孤独な人生が大きく変わり始めたのは、兄の結婚式のことを知ったときだ。
「この結婚式には何かがあり、それは名付けることのできないひとつの心持ちをフランキーに与えていた」
 彼女は興奮し、根拠のない妄想をふくらませる。兄の結婚式に出席するため、街を出た後、もう自分の町には戻らない、兄夫婦と一緒に新婚旅行について行くのだという。フランキーの興奮ぶりを見て、ベレニスは「あんたは太陽に焼かれて、頭がいかれちまったんだと思う」と実にまっとうな意見を言うし、ジョン・ヘンリーも賛成する。しかし、フランキーはゆずらない。ゆずらないどころか、自分をばかにしたベレニスにナイフを向けさえする。
『結婚式のメンバー』という小説がすごいところは、考えを聞かされるだけで赤面したくなるような、未熟で無知で頑固な少女の目線で物事を見ることを強いられることだ。フランキーの頭の中に入り込んでしまって、そこから出ることを許されない。ぼくたちは、なんとかしてこのバカな少女を笑おうとする。あるいは、物語を相対化しようとする。いわく、これはビルドゥングス・ロマンなんだとか、イニシエーションの物語なんだとか。それで自分はこの「緑色の気の触れた夏」から逃げようとする。翻訳者村上春樹は、解説の中で次のように書いている。
「ただひとつだけわかっていただきたいのは、この小説は単なる『人生の通過儀礼』を描いた小説ではないということだ。つまりこれは「かつてこういう少女時代がありました。そのようにして私たちは大人になって来たのです』という物語ではないということだ」
 フランキーの常軌を逸した言動と無根拠な高揚感に出会い、恥ずかしい思いをするのは、ぼくの中に「気の触れた夏」があるからだ。大人になるとは、「あの夏を経て」なのか、それとも「あの夏を抱えて」なのか。マッカラーズは、フランキーというどこにでもいそうな少女の「夏」を容赦なく描くことで、あの夏は、どこかに行ってしまったわけではないことを教えてくれる。