真実の苦み 小谷野敦『聖母のいない国』 

「北米文学を読む」という副題が付されている本書は、マーガレット・ミッチェルマーク・トウェインヘミングウェイサリンジャージョン・アーヴィングといった有名どころから、あ、これもアメリカ文学だった? というヘンリー・ジェイムズ、こんな作家いたのかというメアリー・マッカーシーまで13の作家と作品が取り上げられている。
トム・ソーヤーの冒険』に「グッド・バッド・ボーイ」(=少年は悪童であることが望ましい)というジェンダー・イメージがあることを指摘し、「フェミニストを含めて、『善良な男の子』への抜きがたい嫌悪感が埋め込まれている」と書いたり、『日はまた昇る』に語られる「不能であることの希望」を論じたりする小谷野敦は、まるでフェミニストなのだが、いうまでもなく彼はいわゆるフェミニストではない。フェミニズムはときに過激に、たとえば本書にも登場する「すべてのセックスはレイプである」といった言葉で男性中心社会を相対化する視点を提示してみせるが、小谷野がやろうとしていることは、ジェンダーに限らず、私たちが無批判に受け入れている偏見や常識を相対化してみせることである。
 メアリー・マッカーシーの『グループ』という小説は、名門女子大を卒業した8人の女性を主人公にした群像劇。金井美恵子が『恋愛太平記』を書いたとき念頭に置いていたのは、『細雪』以上にこの小説であったろうが、出来はこの『グループ』に「遠く及ばない」という。小谷野によるといちばんマッカーシーに似ているのは、中産階級の結婚生活を性生活も含めて大胆に描いた倉橋由美子の山田桂子シリーズ(『夢の浮橋』『城の中の城』『交歓』など)だという。金井美恵子倉橋由美子といった才女に弱いぼくとしては、ぜひ読んでみたい作品だが、それはともかく、マッカーシーが金井や倉橋と異なる印象を与えるのは、マッカーシーの作品が持つ「直截性」だと小谷野は言う。
「メアリーにとって、事態は単純明快なのである。彼女には文才と美貌があり、男と出会って気があえばセックスをし、さらに気が進めば結婚する。もうその男とやっていけないと思えば別れる。子供を作る気がなければ避妊する。そして真実を書く。それだけのことだ」
 これがどれほど難しく、ときに大きな代償を支払うことになるかは、彼女がゴシップにさらされ、多くの敵を作ったという事実からもうかがえる。
 最後の章で『赤毛のアン』のアンの保守的な生き方を分析しながら、小谷野は「『アン』を愛読する少女たちを含め、多くの人々には、確固たる自己などないのだし、実現すべき自己などないのである」と書いている。ぼくもこれを読んで、そうなんだよなあと思わず考え込んでしまった。真実というのは、にがくつらいものだ。それでも『聖母のいない国』がさまざまな偏見の存在を明らかにし、真実から目をそらすまいとするのは、日本にはほんとうのことを単純に語ることばがあまりにも少ないからである。