夢の効用と代償 ジョン・アーヴィング『ホテル・ニューハンプシャー』

 一流ホテルを経営するという夢に取りつかれた男とその家族の物語、それが『ホテル・ニューハンプシャー』だ。アメリカ文学には、無垢なるものとしての夢に取りつかれ、それを執拗に追い続ける男がしばしば登場する。『ホテル・ニューハンプシャー』でも言及される『グレート・ギャツビー』や『白鯨』はその典型である。
 江藤淳は『アメリカと私』の中でアメリカ社会を適者生存という競争原理がむき出しになった社会として描いている。弱いもの、社会に適応できないものは生き残れないのはどこの社会でも同じだが、アメリカ社会はそうした競争原理が露わになっている社会、いわば危険と隣り合わせの荒野だと言える。
 レイプとその傷からの回復というのが『ホテル・ニューハンプシャー』の物語からすぐに見て取れるテーマだが、その背後には、つねに死と暴力の影におびえながらアメリカという荒野を生きる人にとって、夢とはどんな存在で、どのように機能するのかというモチーフがある。
 物語のはじめに父親が子供たち、フランク(長男)、ジョン(次男・語り手)、フラニー(長女)、リリー(次女)、エッグ(三男)の兄弟を前にして、二十代のころ、曲芸をする熊をユダヤ人の曲芸師フロイトから買うという話、父親と母親のロマンスにまつわる話をする場面が出てくる。子供たちはその話をもう覚えてしまうぐらいくり返し聞いていたという。父親が前に言ったことと矛盾することを言ったりすると、事実確認のために母親が呼ばれたりするのだが、母親の話は事実にのっとってはいたが退屈で、子供たちは母親を呼んだことを後悔した。このエピソードは『ホテル・ニューハンプシャー』という物語が、父親が作るおとぎ話でもあることを予告している。
 語り手の次男ジョンは、だれもが一癖ある変わった一家を世間に対して恥ずかしがっているが、彼らはみなアメリカ社会に適応できない変わり者の一家である。父親のホテル経営という夢は、過酷な現実から一家を守るシェルターのような役割を果たす。と同時にその夢を現実のなかで維持していくために、家族に大きな犠牲を強いるものでもあった。
 第一次ホテル・ニューハンプシャーは、廃校になった女学校を改装したものだが、建物の購入費や改装にかかる費用は、母親の亡くなった両親の財産である家を売り払って捻出された。フロイトの誘いに応じて一家で移住したオーストリアのウィーンにあった安ホテルが第二次ホテル・ニューハンプシャーになった。遅れて到着するはずだった母親とエッグは飛行機事故で死亡。ウィーンの安ホテルは、売春婦とテロリストの巣窟だった。
 テロリストたちのオペラ座爆破計画を阻止しようとした際、爆風で飛んできたガラスによって父親は失明するが、その失明は彼が現実を一切見ようとしなかったことを物語っている。フラニーをレイプしたアメフト選手チッパー・ダヴは、単純で腕力にものをいわせる筋肉バカだが、フラニーたちの父親はチッパー・ダヴのような人間の対極にある夢の中にしか生きられない人間である。一家はウィーンで熊の着ぐるみの中に入ったまま出てこなくなったスージーという女性と知り合う。彼女もレイプの被害者だ。熊の着ぐるみは、あるいは熊として生きることは、スージーにとってシェルターになった。同様に、ホテル・ニューハンプシャーという夢の中でのモラトリアムが、フラニーの回復には必要な時間だったかもしれない。しかし、ホテルという夢を維持する代償も、決して小さくはないのである。
 次女リリーは、一家のアメリカ帰国後、一家の物語を小説にして作家デビューを果たす。『大きくなろうとして』と題された彼女の小説はベストセラーになり、大きな報酬を手にするが、その報酬は第三次ホテル・ニューハンプシャーのために購入する土地と建物に使われる。リリーは第二作の失敗を苦にして自殺する。作品の不出来が自殺の原因であるとされているが、ぼくはリリーの収入で一家を支えること、つまりホテル・ニューハンプシャーという夢を維持することの重荷にたえられなかったのだと思う。
 チッパー・ダヴのような人間がうようよしている過酷な現実と同様に、父親が偏執的に追うホテルという夢も家族を殺しているのである。しかし、家族にとってホテルという夢を維持することは、家族を維持するのと同義になっているようだ。フラニーが社会に出て、女優という華やかな職業についたのと対照的に、語り手ジョンは、何もせず(社会的な意味では)、ただ父親の世話をしながら、父親に変わって、第三次ホテル・ニューハンプシャーを維持することを選んだ。
 第三次ホテル・ニューハンプシャーは、スージーの運営するレイプ相談センターとして使われ、多くのレイプ被害者が一時滞在する場所となった。スージーが言うには、父親は優れたカウンセラーの才能があるらしい。しかし、盲人用のつえの代わりに、野球のバット(!)を持っている男に被害者は安心できるだろうか。
 ジョン・アーヴィングは『ホテル・ニューハンプシャー』を書く上で大いに参照したであろう『ブリキの太鼓』を、作中で絶賛する。その『ブリキの太鼓』は「そのとおり、ぼくは気違い病院の住人である」という一言から始まる。物語の語り手が精神病院の患者であるというひややかな認識は、アーヴィングの夢の暴力性に対する認識の甘さを浮き彫りにする。