もう一つの現実 今村夏子『あひる』

 

あひる (角川文庫)

あひる (角川文庫)

 

 (ネタバレ)今村夏子の『あひる』を読んでいると、ときどきキリキリとお腹が痛くなった。読んでいるものの意味を考える前に、体が反応したのだ。だから、『あひる』について考えるということは、この痛みの由来をさぐることになる。

『あひる』は今村夏子の二冊目の小説集で表題作「あひる」のほか、「あばあちゃんの家」「森の兄妹」の三篇が収録されている。「あひる」は、語り手「わたし」の家に「のりたま」という名前のあひるがやって来るところから始まる。

 家には父親、母親と「わたし」の三人が住んでいる。「わたし」は医療系の資格を取ろうと家で勉強している女性。「わたし」には弟がいるが、結婚して家を出ている。「わたし」はまだ働いたことがない。 

 あひるは父親の同僚が飼っていたのを引き取ったもので、もともと家にあったニワトリ小屋があひる小屋になった。あひるがやって来てすぐ家にお客さんが来るようになった。あひるがいることを目ざとく見つけた小学生たちだ。彼らは毎日のようにあひるを見にやって来る。

 家にかわいいお客さんが来るようになって父親も母親も喜んだ。ところが、家にやってきてまだ一か月も経たないうちに、あひるの様子がおかしくなった。見るからに元気がなくなり、食欲もない。環境の変化やストレスで弱っているらしい。

 ある日「わたし」があひる小屋を見ると、あひるがいない。「わたし」があひるがいないことを母親に指摘すると、お父さんが病院に連れて行ったという。「元気になったら帰ってくるからね、ごめんね」と母親は小学生たちに言う。

 

 今村夏子はとてもやわらかい読みやすい文体で、あひるがやって来た家族の日常の変化を淡々と綴っていく。しかし、そこにはやわらかさとともにしっかり不穏な空気があって、最初はささやかなサインのようなものが、次第に明確な形をとり始める。

 あひるがいなくなった日、こんなやりとりがさりげなくかわされている。

 あひるを見に来た男の子が二階の窓から下を見下ろしている「わたし」を見て、ギョッとした顔で「人がいる」と言った。それに対して母親が「娘よ」とこたえる、という場面である。

「人がいる」という表現は明らかに不審の表明であり、本来いるべきでないところに人がいるのを見つけてしまったと言っているように聞こえる。この不気味さがこの作品の核心だと思う。文庫解説の西崎憲もこの一節に言及し、「あひる」が特別な作品になっているのはこの箇所のゆえではないかという。ただ、その先の作品というシステムの中にいながら、システム自体に言及する試みであると言っているのは、ぼくにはピンとこない(語り手がシステムの外にいるというところ)。

 ぼくがこの箇所に戦慄するのは、語り手「わたし」が見つけられてしまったというその一点に尽きる。なぜこんなことが起こりうるかというと、「わたし」は両親から見えない存在だからである。いや、そんなことはない。見えてるやん、という声が聞こえてきそうだが、結婚も仕事もせず、学校にも行かず、医療系の資格を取ると言って二階にこもっている娘。両親の目から見てもはや何の意味も持たぬ存在になっているのだ。

 そして、この一節が「あひる」という小説の怖さの見事な前触れになっている。父親が病院に連れて行ったあひるは、二週間後帰ってくる。しかし、それは前とは違う別のあひるである。怖いというのは、その事実に家族が目をつぶって、前と同じあひるが元気になって帰ってきたようにふるまうことだ。

 こうして家族に〈もう一つの現実〉が共有され、維持される。こうすることにより、家はあひるを見に来る子供たちが楽しく過ごす場所であり続ける。両親は子どもたちにあひるを触らせるだけでなく、家に上げてお菓子を出したり、ゲームを買ってきたりするようになる。何かに依存せずには生きていけない人が、そのターゲットをあひるを見に来る小学生に定めたとき、「のりたま」という元気でかわいいあひるが家にいることが彼らにとって、必須条件になった。

 そのために彼らは「のりたま」を三代目まで飼わなければならなかったが、それは元気なあひるがいるという〈もう一つの現実〉を維持するために必要な犠牲だったのである。「わたし」もまた〈もう一つの現実〉の維持に加担している。「不良のたまり場」になった家に帰ってきた弟が家族に対して暴君のようにふるまうのも、結局のところ、この家族によって形作られた〈もう一つの現実〉が生み出したグロテスクなありようなのだろう。

 彼らはいつ「のりたま」は三羽いたという現実を認めるのだろう。三羽目の「のりたま」が死んだとき、三輪車にまたがった小さな女の子が「死んだの三びき目でしょ」と言う。それこそ王様は裸だというあの高らかな宣言が突きつけられるのだが、そこにいた家族三人は誰もその言葉に耳を貸そうとしなかった。

 今村夏子が「あひる」で描いたのは、〈もう一つの現実〉が維持されていく中で出てくる犠牲であるが、彼女が行っているのは、糾弾からはほど遠い。善悪の価値判断でもない。そのことは他の収録作「おばあちゃんの家」「森の兄妹」を見ればよりはっきりする。〈もう一つの現実〉がときに人が生きるのに欠かせないものとして描かれている。「おばあちゃんの家」で家族が見ているおばあちゃんは、ほんの一面でしかないことがミステリーのように見えてくるし、「森の兄妹」では、貧しい兄妹が偶然出会ったおばあさんの存在は、兄の少年にとってファンタジーの域に達している。「孔雀」という両作品をつなぐキーワードも〈もう一つの現実〉である。

 ここではっきりさせよう。〈もう一つの現実〉なしに人は生きることができない。しかし、それが〈もう一つの現実〉であるかどうか、人は自覚しない場合もある。王様は裸だというたとえで言うなら(このたとえは文庫の解説にも言及されていたが)、誰もが〈もう一つの現実〉という服を身にまとっているので、そんなことは常識なのである。

 最初の痛みに戻ろう。人が無自覚に〈もう一つの現実〉を現実であると標榜するとき、それにともなう犠牲にもまた無自覚である。あるいは、見て見ぬふりをする。ぼくがこの小説を読みながら感じたお腹の痛みは、「ねえ、三びき目でしょ」という問いかけに始まっている。今村夏子のような作家だけが、子どものようにそうした問いかけができるが、それがどれだけ大変なことかは、『こちらあみ子』後の沈黙のうちに示されてるように思われる。