ファムファタル殺し 村上春樹『国境の南、太陽の西』

 

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

 

 (ネタバレ)

 まず、この小説に感じた強い違和感から始めなければならない。『国境の南、太陽の西』は謎が多い小説だが、ぼくが感じたのは仕掛けとしての謎ではなく、小説に内在している歪みのようなものである。その歪みが何に由来するのか、考えてみたい。

 語り手「僕」は東京・青山でジャズバーを経営している。妻と二人の幼い娘がいる。「僕」が今の安定した地位を手に入れたのは、建設会社社長の父を持つ妻と結婚したからだ。妻の父親は教科書専門の出版社でくすぶっていた「僕」にジャズバーの経営を持ちかけ、資金を出してくれた。バーの経営は順調で、「僕」は注目の若手経営者として雑誌に紹介されるまでになった。

 そんなある日、バーに現れたのが島本さんだ。彼女は「僕」の小学生時代の同級生で、たがいに孤独な子供だった二人は強い絆で結ばれるようになった。異性として惹かれあっていただけでなく、精神的双生児であり、たがいが相手の精神的片割れであるような関係だった。「僕」と島本さんは中学校に入って次第に疎遠になっていったが、そのせいで「僕」は心に大きな欠落を抱え込むことになった。

 島本さんはバーに時折やって来るようになった。謎が多いと言ったが、最大の謎は島本さんだ。高級な服に身を包み、お金に不自由しているようには見えないが、一度も労働したことがないという。しかし、いつも自由に出歩ける立場ではないらしい。謎と制約を身にまとう人物。合理的な解釈は可能だろう。しかし、ここで示唆されているのは彼女が現実のレベルとは異なる次元に属しているということにほかならない。いわば運命が「僕」のもとにやって来たのだ。

 運命は与え、そして回収する。「僕」はすでに十分地位も財産も手に入れているので、島本さんは回収にやって来たと言っていい。そういう意味で島本さんは「僕」のファムファタルだ。島本さんは「僕」を誘う。島本さんの誘いにのるということが、何を意味するのか、それを村上春樹は次のように島本さんに言わせている。

「これはとても大事なことだから、よく聞いて。(…)私の中には中間的なものは存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間も存在しないの。だからあなたには私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかないの。それが基本原則なの。(…)二度と私にどこにも行ってほしくないというのであれば、あなたは私を全部取らなくてはいけないの。私のことを隅から隅まで全部。(…)そして、私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。(…)それが何を意味しているかもわかっているの?」

 基本原則。大事なことはこれに尽きる。物事には基本原則というものがある。村上春樹はそれをよくわかっている。わかっていながら、その原則を守らないこと、『国境の南、太陽の西』に感じた違和感は、ここに由来する。故意に物語の基本原則を歪ませること、それが『国境の南、太陽の西』の主題だと言っていい。

「僕」は高校時代、イズミという女の子と付き合っていた。とびきり美人というわけではないが、明るく素直な性格の女の子。身持が固く、デートを重ねてもキスしか許してくれなかった。だからというわけでもないだろうが、「僕」はイズミを裏切り、イズミの従姉である大学生と浮気をした。「僕」はイズミの従姉に激しい「吸引力」を感じた、彼女と寝たのはどうしようもないことだったと言っているが、その結果、イズミをひどく傷つけた。イズミの顔からは表情というものが一切欠けてしまったのだ。従姉ものちに36という若さで亡くなっている。この体験から「僕」が学んだこと「それは、僕という人間が究極的には悪をなし得る人間であるという事実だった」

 悪が原理原則を歪ませる。物語そのものの結構に風穴をあけ、逃げ道を作ろうとする。「僕」の悪とは、究極的には生き残ることである。島本さんは私と一緒になりたいなら何もかも捨てる覚悟があるのか、と「僕」に迫った。「中間」はないという島本さんが言っているのは、私と一緒に死にましょうということであり、島本さんがこの世のものでない以上、二人が結ばれるのは、あの世においてしかない。これがファムファタルの要求である。事実、島本さんは二人が箱根の別荘へ向かう車中で心中をほのめかしたりする。島本さんは別荘で「国境の南、太陽の西」のエピソードを語るが、結局のところ、境界線を越えて、跡形もなく姿を消してしまったのは、島本さんだけだった。

「僕」はその後、紆余曲折あるものの、再び妻子との日常に復帰する。こんなおかしなことがあるだろうか。ファムファタルと運命をともにすることを決意したにもかかわらず、女だけ行方知れずになり、男は物の鞘に戻るなどということが。これは物語の基本原則を離れているのではないか。文学の一手法として信用できない語り手というのがあるが、村上春樹は故意に物語の重要なピースを言い落すことがある。「僕」は何か隠してないか。もう一度「僕」の言葉を確認しよう。

「動機や思いがどうであれ、僕は必要に応じて身勝手になり、残酷になることができた。僕は本当に大事にしなくてはいけないはずの相手さえも、もっともらしい理由をつけて、とりかえしがつかないくらいに決定的に傷つけてしまうことのできる人間だった」

 イズミを傷つけたくだりで「僕」はこのように言っている。「僕」は島本さんが要求したものを本当に差し出すつもりだったのか。答えは否だ。島本さんを幻想と認識することにより、「僕」は島本さんを殺した。これ以外に『国境の南、太陽の西』の歪みを説明しようがない。「幻想はもう僕を助けてはくれなかった。それは僕のために夢を紡ぎだしてはくれなかった」

 生き残ること、おそらく村上春樹という作家にとって、これは重要な主題だ。シーモア・グラースやホールデン・コールフィールドのように表舞台から退場することを自ら選んだ主人公たちは、どうやったら生き残ることができるのか。その答えは悪にあった。生き残ることは、殺すことであるなら、生き残った者はその代償として幽霊に悩まされることになる。物語の終局に「僕」が島本さんやイズミの幻影に出会うのは当然と言えば当然のことである。