もうひとつなにか別のものをひっぱってくること 村上春樹『騎士団長殺し』

 (ネタバレ)新潮社のハードカバーの帯には『1Q84』から7年と銘打たれた文字が踊り(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』からいうと4年だけど、それはともかく)、出版社や書店としては村上春樹の新作発売を何とか盛り上げようとしていたのとは裏腹に、『1Q84』からもう7年(あるいは『多崎つくる』から4年)も経ったのかという驚きのほうが先に来た。仕事は忙しく、時間が経つのは早い。まあ、そんなわけで発売から半年も経ってようやく『騎士団長殺し』を読み終えた。
 肖像画家の「私」は結婚生活6年目のある日、妻から別れを切り出される。強いショックを受けた「私」は、仕事をすべてキャンセルし、愛車プジョーで東北から北海道をあてもなくめぐる旅に出る。「私」が長旅を終えたのは、美大時代の友人雨田政彦が小田原の人里離れた山中にある一軒家を貸してくれたからだ。その一軒家は政彦の父で日本画の大家であった雨田具彦がアトリエとして使っていたものだったが、現在は具彦が認知症のため、空き家となり管理者を必要としていたのだという。かつて日本画の大家がアトリエとしていた閑静な山間の住宅に落ち着いた「私」は、そこで一人静かに自分のための絵を描く孤独な生活を始めるはずだったが、次々に起こる奇妙な出来事に巻き込まれることになる。すべての始まりは「騎士団長殺し」と題された雨田具彦の未発表の日本画を発見したこと。そしてもう一つはアトリエの裏にあった石積みの塚を掘り、地下にあった石組みの石室を解放したことだった。そして、その中から「騎士団長」の姿を借りたイデアが現れることになる。
 既視感に満ちた小説の幕開けは、飽きっぽい読者を置き去りにするには十分だと思う。『1Q84』の魅力的な高速道路から降りる始まりから比べるとなおさらだ。もう一つ『騎士団長殺し』を読み始めて驚いたのは、別れ話を持ち出した妻と9か月を経て、元の鞘に収まるという物語の結末を第1章で明らかにしていることだ。
 今、読み終えてわかることは、読者に「またこの話?」と思われてもいいし、紆余曲折を経て、主人公が再び妻と結婚生活を送るようになるという結末そのものが重要なわけでもないという作者の思いである。言い換えれば、見慣れた助走の先にあって、妻との元鞘に至るプロセスの中に村上春樹が導き入れたものこそ、『騎士団長殺し』という小説にとって見逃してはならないものだということになる。
 それが免色渉という作中人物であることは言うまでもない。ここからは免色に焦点を絞って『騎士団長』を見ていこう。「私」の住む家から谷を隔てた向かいに瀟洒な白亜の邸宅を構える免色は、「私」に肖像画を依頼するが、そこには別の思惑が隠されていた。職業や経歴、年齢も不詳の人物として登場する免色に関する謎は、物語が進むにつれ、次第に明らかになっていく。
 かつてIT企業を経営していた免色は、若くして業界を退き、現在はインターネットを介した株取引きなどで利益を得ている。しかし、これはあくまで頭の体操のようなもので、遊んで暮らせるほどの貯蓄があるらしいことは、免色の金遣いから想像できる。また、免色は自分の目的を達成するための財力と能力と強固な意志を持ち合わせた人物でもある。
 秋川まりえ。彼女は免色のかつての恋人との間に生まれたかもしれない娘だ。まりえは免色の娘かもしれないし、そうではないかもしれない。免色はそれを突き止めようとはしないが、まりえに対して異常な(猟奇的なと言ってもいいかも)執着を持っている。まりえは「私」と同じ側の山間に住んでいて、免色の邸宅からはまりえの家が一望できる。免色が「私」に肖像画を依頼したもの、免色が山間の邸宅を手に入れたのもすべては、まりえに近づくためだった。
「私」は週2回小田原の絵画教室で教えており、秋川まりえはそこの生徒だった。そして「私」は秋川まりえをモデルに肖像画を描くことになる。
 なぜこれほどまでに免色はまりえに執着するのだろうか。免色は言う。
「私はこのまりえという娘から目を目を離すことができなくなったのです。(…)理屈も何もなく……」(13)
「(…)彼女(秋川まりえ)と一緒にいて、その顔や姿を目の前にして私はずいぶん奇異な感情に襲われました、自分がこれまで生きてきた長い歳月はすべて無為のうちに失われていたのかもしれない、そんな気がしました。そして自分という存在の意味が、自分がこうしてここに生きていることの理由が、今ひとつよくわからなくなってきました。(…)」(39)
「自分をコントロールする力が強い」(18)と自らが言う免色は、これまで情報ビジネスの世界にいたせいで「良いことも悪いことも、つい数値化する癖がついて」いて、それが人生における「拠って立つべき中心軸」(16)だった。理知の前には感情は常に抑制され、コントロールされる。そのような生き方をしてきた免色という人物の感情を大きくかき乱し、ありかたそのものを大きく揺るがしかねない存在、それが秋川まりえだった。免色は彼女が自分の娘である「可能性の光の中で自分を見つめ直している」(39)というあいまいなことを言うが、秋川まりえに対して具体的に何を求めているのかという「私」の問いには、答えようとしなかった。しかし、イデアである「騎士団長」は言う。「免色くんにはいつも何かしら思惑がある。必ずしっかり布石を打つ。布石を打たずしては動けない」(39)
 免色は高性能の双眼鏡で秋川まりえの家を覗き、「私」に秋川まりえの肖像画を描かせ、秋川まりえの叔母であり、母親代わりの女性秋川笙子と親密な関係になった。仮にこれらが「布石」だとすると、彼の「思惑」とは一体どんなものなのだろうか。
 秋川まりえの肖像画がもう少しで完成するというとことで事件が起こる。秋川まりえがいなくなったという一報は叔母の笙子からの電話でもたらされた。彼女はいったいどこへ行ったのか。「私」は秋川まりえの行方を捜すため、「顔なが」が開けた「メタファー通路」を通って地下世界へと降りていく。「騎士団長」の犠牲と地下世界での「私」の試練が、秋川まりえ解放に具体的にどのように関わっているのかという因果関係は明確になっていない。しかしながら、ことは「第三者的な要素」に関わると思われる。
騎士団長殺し』は、免色や秋川まりえの肖像画を描く際、「私」が考えたり、話したりする肖像画の方法論が、そのまま村上春樹の創作論として読めるところがとても興味深いのだが、「私」はまりえの肖像画を描きながら次のような会話を交わす。まりえは「私」が描く絵を通して自分のことをもっとよく理解したいという。

「でもそれは場合によってはけっこう怖いことかもしれない」
「自分をよりよく理解することが?」
 まりえは肯いた。「自分をよりよく理解するためには、もうひとつなにか別のものをどこかからひっぱってこなくてはならないということが」
「何か別の、第三者的な要素が加わらないことには、自分自身について正確な理解はできないということかな」
(…)
「そしてそこに加わる何かは、場合によっては怖いものでもあるかもしれない。それが君の言いたいことなのかな?」
 まりえは肯いた。(38)

「なにか別のもの」あるいは、「第三者的な要素」。村上春樹が『騎士団長殺し』において導き入れようとしたのはこれである。それはいろんな形で物語の中に形象化されている。たとえば「私」が描く「白いスバル・フォレスターの男」。男はあたかも「おまえがどこで何をしていたかおれにはちゃんとわかっているぞ」(19)と言ってみるように見える。そう、男は知っているのだ、「私」の中にあって「私」が見ないようにしている暴力性のようなものを。「私」よりはるかに詳しく。それを知るのはけっこう怖い。それは行方不明になってしまったまりえを捜すためにおそらくは必要なプロセスだったとしておこう。まりえは「解放」されたのだから。
 では一体まりえはどこにいたのか。まりえがいたのは免色の邸宅のメイド用の部屋だ。免色の邸宅へ勝手に忍び込んで、厳重なセキュリティに阻まれて出られなくなってしまったのだ。だから、物語の事実関係として、免色がまりえを監禁していたとか、「私」が直接彼女の脱出を手助けしたということにはならない。しかし、『騎士団長殺し』は村上春樹の小説にしては親切すぎるくらい丁寧に「こう読んでね」という道しるべをつけてあるので、ここはそれに耳を傾けよう。
 免色さんは危険な人物かとまりえに問われた騎士団長は彼を邪悪な人間ではなく、高い能力を持つ人物だと評した後「彼の心の中にはとくべつなスペースのようなものがあって、それが結果的に、普通ではないもの、危険なものを呼び込む可能性をもっている」(61)と言っている。秋川まりえが邸宅の数ある部屋のひとつのクローゼットに隠れていた時、帰宅した免色はクローゼットの前まで来ていたにもかかわらず、それを開けることをしなかった。この部屋はおそらく「私」の主婦のガールフレンドがうわさ話で聞いたという「青髭公開かずの部屋」(「青髭」!)だろう。そのクローゼットには免色のかつての恋人でまりえの母親の女性の服が丁寧に防虫されてしまい込まれていた。
 まりえは騎士団長に尋ねる。

「さっきクローゼットの前にじっと立っていた人は、免色さんだったのですか?」
「それは免色くんであると同時に、免色くんではないものだ」
「免色さん自身はそのことに気づいているのですか?」
「おそらく」と騎士団長は言った。「おそらくは。しかし彼にもそれはいかんともしがたいことであるのだ」(61)

 すべてをコントロールしようとした男が「いかんともしがたい」ものに支配されているとしたら、ずいぶん皮肉なことだが、免色という男は「第三者的な要素」の力を甘く見積もっていたに違いない。免色は「私」のことをうらやましいという。「あなたに望んでも手に入らないものを望むだけの力があります。でも私はこの人生において、望めば手に入るものしか望むことができなかった」(48)。谷を挟んで向かい合う家に住み、互いに人生の転機を迎えた男たちは、自分の自由にならない何かとの向き合い方においては対照的だったと言える。その結果、「邪悪なもの」ではないはずの免色が結果としてまりえを「閉じ込める」(まるで邸宅そのものが免色の意思を免色の思惑を超えたところで実行をしたかのように)ことになってしまった。
 この出来事の後、「私」は別居していた妻と再び暮らし始めるが、そこには以前と違うことが一つある(そして『ねじまきどり。それは「私」の妻の妊娠・出産である。それが誰の子ははっきりしないが(読み方はいろいろあると思う)、その子供はまさに「私」の9か月の試練の末、ようやく導き入れられた「第三者的な要素」である。免色にはできなかったことが「私」にはできた。村上春樹の作中人物が子供を持つ(短編は別として)というのは、ずいぶん長い時間がかかったなあと感慨深いものがあるが、それがいかに大変なことであるか思い知らされるような小説だった(父になること、同時に「父」としての雨田具彦の安らかな死)。『騎士団長殺し』を読んだ知人が「普通」という感想を持ったと言っていたが、長い長い時間をかけてここまでたどり着いたプロセスに意味がある。いうならむしろ「真面目」だと思う。