語る男、沈黙する女 村上春樹『女のいない男たち』

書き下ろしの表題作のほか「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデー」「独立器官」など、6編の短編が収録された短編集。村上春樹は「まえがき」で本書のモチーフを「いろいろな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」だと説明している。妻を病気で亡くした俳優(「ドライブ・マイ・カー」)、愛人に裏切られる医者(「独立器官」)…。村上春樹はこれまでも不在をモチーフにした小説を書いてきた。とくに猫そして、妻の失踪が描かれる『ねじまき鳥クロニクル』はこの系列の代表作である。
ぼくはこの短編集を読みながら、何度も「言葉」というキーワードを思い浮かべた。言葉をめぐる攻防。言葉によって世界を理解しようとする(この理解は「所有」でも「支配」でもかまわない)男と張り巡らされた言葉の網からするりと抜け出す女。この観点から短編集『女のいない男たち』を読み解いてみたい。
「ドライブ・マイ・カー」と「独立器官」は、女に裏切られた男が語り出す。語りは女の不在、ぽっかりと空いた穴のようなものに向かう。それらを埋めようとして、あるいは少なくとも穴の輪郭を描こうとして。しかし、彼らの試みはうまくいかない。妻の浮気の秘密を探ろうとした俳優は、若い女性運転手に「女にはそういうところがある」という一言で片づけられてしまう(「ドライブ・マイ・カー」)。50を過ぎるまで「技巧的生活」を送ってきた医師は、愛人を本気で好きになってしまっただけで自分を見失ってしまう(「独立器官」)。「イエスタデイ」は、東京生まれなのに関西弁しか話さない男の話。関西出身なのに東京に出てから標準語しか話さなくなった「僕」とともに、彼らは言葉で自分を変えられると思っている。言葉はあくまで「技巧」にすぎない。しかし、男たちは言葉が世界とかかわる唯一の手段であり、世界が言葉でできているかのように考えている。
シェエラザード」で語るのは女である。タイトルの由来は『千夜一夜物語』の王妃の名。彼女は王に首を刎ねられないよう、毎夜王におもしろい話を語って聞かせる。このエピソードは言葉と女の関係を考えるとき、とても興味深い。「シェエラザード」に登場する女は自分の前世はやつめうなぎだったと言う。
「やつめうなぎはどんなことを考えるんだろう?」
「やつめうなぎは、とてもやつめうなぎ的なことを考えるのよ。やつめうなぎ的な主題を、やつめうなぎ的な文脈で。でもそれを私たちの言葉に置き換えることはできない(…)」(「シェエラザード」)
彼女はあっさり言葉の限界を認め、沈黙の世界の存在を男に垣間見せる。
このような言葉をめぐる男女の攻防という枠組みに収まらないのが「木野」である。「木野」は、妻の浮気現場を目撃してしまった男(木野)が沈黙の中に逃げ込もうとする話。会社を辞め、小さなバーの経営を始めた男は、ある女と寝たことをきっかけに周辺に小さな変化が起き始め、やがてバーを閉めて逃亡生活を送ることになる。「まず猫がいなくなり、それから蛇たちが姿を見せ始めた。」
バーの常連客だったカミタは木野のバーについて「ここは僕ばかりではなく、きっと誰にとっても居心地の良い場所だったのでしょう」というが、沈黙の世界に邪悪なものの影がちらつき始めたというのは、あくまで言葉の世界からのものの見方であり、そもそも沈黙の世界に正邪の区別などつけようもない。木野は言葉で自分を守ろうとしなかったせいで、自分の奥底へと足を踏み入れてしまったにちがいない。彼の部屋をノックするのは、彼がこれまで言葉の世界を生き、その死角になっていて見ようとしかったものである。
「木野」は「ねじまき鳥と火曜日の女たち」(『パンや再襲撃』所収)のように今後の長編につながっていくのではないだろうか。