「かしこ」の小説は猛スピードで 高橋源一郎『君が代は千代に八千代に』

 高橋源一郎はテレビの情報番組にコメンテーターとして出演したり、大学教授の肩書があったり、安保法制反対で話題の学生運動SEALDsとの共著をだしたりする。いわゆる有名人だ。しかし、高橋源一郎が小説を書いていることはあまり知られていない、というのはたちの悪い冗談にしても、高橋源一郎の小説のファンだという人はきっととても少ない(と思う)。
 確か村上春樹が、かしこい人は小説なんか書かないという意味のことを書いていたと思うが、高橋源一郎は、かしこい人、関西弁でいう「かしこ」である。ちなみに村上春樹も「かしこ」なんだけど、彼は小説の書き手として「あほ」を装える人だと思う。だから村上春樹の小説は売れる。
「かしこ」が小説を書くとどんなふうになるのだろう。一言で言うと、小説が「結論」だけになっちゃうということだ。もう「結論」がわかってる。ほんとならそんな人は小説を書かないのに、高橋源一郎は書く。「結論」だけでは、小説にならない。では、彼はどんな方法で小説を書くのかというと、「結論」に追いつかれないように小説と競走するのである。
「タイトルは決まっていた(昔から)。連載する雑誌も決まった(ありがとう「文学界」)。問題となるべき中身も、早々と決まっていた。
 いま、ここに、この日本という国に生きねばならぬ人たちについて書くこと、だ。
そのことだけを心に決めて、ぼくは、この小説を書き始めたのだった。」(「この小説の作られ方」)
 言ってみれば、タイトルだけ決めて、よ〜い、ドンで走り出す。運がよければ、「結論」(=もうわかっていること)を振り切れる。短編集『君が代は千代に八千代に』は、ポルノ女優のお母さんが出演するグロ系AVをお友達と鑑賞するケンジくんの話「Mama told me」、幼い娘に対する近親相姦への強い衝動を抑えきれない男の話「Papa I love you」、ロリコン小学校教師が通販で美少女ダッチワイフを購入する「ヨウコ」、キリスト、仏陀ガンジーレーニンといった歴史上の偉人たちが入り乱れてバトルロワイヤルを行う表題作「君が代は千代に八千代に」など、13篇の短編が収められている。性と愛と暴力の世界を入口に高橋源一郎が描こうとするのは、「わからない」こと。
 もうわかってる人が「結論」と競走して、死にもの狂いで猛スピードで「結論」という思考の終着点を振り切って「わからない」もの、「わからない」ことへ向かって駆け抜けようとする、その跡が残っているからこそ、『君が代は千代に八千代に』は感動的なのだ。
「そうそう、忘れていた。『君が代は千代に八千代に』には、素数を扱った短編がある。これ、素数を扱ったあるベストセラー小説が出る前に書いたのです。それから、「スプリット・タン」を扱った短編がある。これも、「スプリット・タン」が出てくる、あるベストセラー小説が出る前に書いたのでした」(「この小説の作られ方」)
 高橋源一郎は、あとがきにこのように書いている。前者は小川洋子の『博士の愛した数式』、後者は金原ひとみの芥川受賞作『蛇にピアス』のことを言っているわけだが、「素数」にしろ「スプリット・タン」にしろ、きちんと物語化すると売れる小説が書ける(もちろん、それだけではないが)。物語化は、物事を理解する最も一般的な方法であり、それをしないで小説世界を全速力で走り抜けようとする作家の小説が売れるわけがない。わかってやってるわけだから、変に物欲しげな書き方しないでほしいな。