トランシーバーのゆくえ 今村夏子『こちらあみ子』

 又吉直樹のような有名人が芥川賞を受賞する効果の一つに「文学」への注目が高まるということがある。『こちらあみ子』は、又吉さんのおすすめ本の一冊。本屋で手に取ってみたら、なんと太宰治賞、三島由紀夫賞をW受賞。穂村弘町田康が書評や解説で夢中になっている。今村夏子という人の本はまだこれ一冊だけというから驚き。
 しかし、そんなことは、『こちらあみ子』にとっては、いや、あみ子にとっては、どうでもいいことだろう。ぼくはこの本を読んで途方にくれた。たぶんぼくは、どこにもあみ子と接点を持つことはできないだろう。もしあみ子がうるさくつきまとってくるようなことがあったら、あみ子が大好きだったのり君がそうしたように、あみ子の前歯が3本も折れるほど強く殴りつけるかもしれない。いや、そうじゃない。きっとひたすらがまんして、ほとんどの人がそうするようにあみ子を黙殺し、遠ざけるにちがいない。あみ子の存在は「フツー」とか「多数派」の作る世の中のありようを期せずしてあぶりだしてしまう。
 一般的には、あみ子のような子をなんと言うのだろう。発達障害? 自閉症? あみ子は、コミュニケーションはできるけど、他人の気持ちがわからない。そんなところから生じるあみ子と周囲の人々との摩擦はますます大きくなるばかり。あみ子は十歳の誕生日にお父さんからアニメの主人公が使っていたおもちゃのトランシーバーと使い捨てカメラをもらう。あみ子は家族の写真を撮ろうとはりきるが、うまくタイミングが合わず、「撮らなくていいです。あみ子さんもう、本当に」。標準語で話し、あみ子を「さん」付けで呼ぶお母さんは、あみ子を制止し、家族に白けた空気が流れる。あみ子はきっと残念だったことだろう。いい写真を撮ろうと思ってちょっとテンションが上がりすぎたのだ。でも、世の中はあみ子のタイミングや思惑とずれたところで動いている。
「ははは、ばーか。でもええのう。なんか、自由の象徴じゃのう。ま、いじめの象徴でもあるけどの」中学校の教室で、なぜかはだしのあみ子を見て、おしゃべりなとなりの席の男の子は言う。それでも話しかけられるだけまだまし。あみ子は男の子に最近気になっていることを言いたくなる。
「ベランダに幽霊おるんじゃけど」「はい?」
 かみ合わないけど、やっぱりこれは会話なのだ。あみ子が話そうとしても、次の瞬間、世の中はもう先へ先へ進んでいるので、あみ子の声はなかなか届かない。父親からひっこしの準備をするよう言われたあみ子は、トランシーバーの片方がなくなっていることに気づく。父親は、そんなものはもういらないだろうと言うが、あみ子は「いるもの」の箱へトランシーバーを入れる。
「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子」
 応答はない。もうひとつのトランシーバーは、ベランダの幽霊が持っているのだから。