ゆがんだ遠近法 多和田葉子『献灯使』

 

 未曽有の災厄後の世界を描いた小説は数多い。災厄後の激変した日本を描く多和田葉子の『献灯使』も広い意味ではディストピアものなのだが、SF小説的な終末観とは異なる印象を受けた。

 百歳を超えてかくしゃくとした老人義郎とひ孫の無名は仮設住宅で二人暮らし。無名は体が弱く、自分で服を着ることも、歩くこともままならない。無名の身の回りの世話は義郎がしている。しかし、無名は自分のひ弱さを悲観することはない。無名に栄養をつけさせてやろうと義郎が買ってきた蓼がまずくて、義郎が謝ると無名は言う。「まずいとか、美味しいとかあんまり気にしないんだ、僕たち」ジュースを飲みこむことができず、激しく咳き込んだ無名に義郎は「大丈夫か、苦しいか」と問いかけるが、無名はきょとんとしている。

「無名には『苦しむ』という言葉の意味が理解できないようで、咳が出れば咳をし、食べ物が食道を上昇してくれば吐くというだけだった。もちろん痛みはあるが、それは義郎が知っているような『なぜ自分だけがこんなにつらい思いをしなければならないのか』という泣き言を伴わない純粋な痛みだった」

「僕たち」という言葉には注目していいだろう。無名世代は義郎たち百歳を超えた老人世代が自明としてきた価値観を共有しておらず、災厄によってもたらされた結果をあたかも自然現象であるかのように特別な感情を伴わず受容することができるのだった。

 義郎と無名が暮らす世界はかつての日本と大きく異なっており、自動車もインターネットもなく、外来語の使用は禁じられている。どうやら日本は鎖国状態にあるらしい。統治機構が小説内に登場することはなく、その実態は不明だが、義郎をはじめ、作中人物たちが統治機構を相当恐れていることは、作家である義郎が自作の歴史小説に多数の外国の地名を使ってしまったことに気づき、「身の安全のために」その小説を破棄せざるを得なかったという事実からも明らかである。

 僕は『献灯使』という小説を読んでかなり奇妙な感じを受けた。この作品には奇妙な歪みのようなもの、読むものをすんなりと小説世界に入らせないようにする仕掛けがあるように感じるのだ。

 一つは言葉遊びの頻出。例を挙げると、走ったら体重が落ちるからジョギングを「駆け落ち」というとか、英語を知らない若い世代は「made in Japan」の代わりに「日本まで」を使うなどだ。

 二つ目は人が動物になぞらえて表現されることがしばしばあること。「昔は軟体動物なんて馬鹿にしていたけど、もしかしたら、人類は誰も予想もしていなかった方向に進化しつつあって、たとえば、蛸なんかに近づいているのかもしれない。曾孫を見ていてそう思います」あるいは、歯科医が無名に牛乳は好きかと尋ねるくだり。無名が「ミミズのほうが好きです」と答えると、歯科医師は平然として「そうか、それじゃ君は子牛ではなく、ひな鳥だな。子牛はお母さん牛のお乳を飲んで育つが、鳥の雛は親鳥がとってきてくれたミミズを食べて育つ」

 三つめは中心の喪失である。義郎と無名が暮らしているのは「東京西域」と呼ばれる地域。文庫解説のロバート・キャンベルはこの地域を「市外局番が『〇三』から三桁以上に増える武蔵野市以西、奥多摩あたりまでを言うのだろうか」と推測している。この世界で栄えているのは農業の盛んな沖縄、四国、北海道で本州から多くの移住者がいる。一方でかつて政治経済の中心であった東京はいまや廃墟であるらしい。この世界がどのように統治されているのかも、詳細は不明で、わかるのは鎖国や外来語の禁止といった内向きの政策がとられているということぐらい。

『献灯使』という小説には小説世界の全体像を見渡す俯瞰的視点が欠けており、どういった仕組みで世の中が動いているのかがわからない。その一方で義郎と無名の生活の衣食住にまつわる事柄は事細かに描写されるのである。言葉は次第に意味をはぎとられていき、人は鳥や虫になり、近代的認知の自明である遠近法は子供の絵のようにゆがめられている。

 多和田葉子が作り上げたのは、ゆがんだ遠近法の世界。小説世界そのものが読者の目から見て異物であるような世界なのかもしれない。感情移入も消費もできない。できるのは変わり果てた世界を固唾をのんで見守るだけ。しかし、外部を失った世界というのは多和田葉子の描く小説世界の日本だけなのだろうか。むしろここに描かれているのは歪みをともなった日本という国の自画像そのものではないか。だからこそ、僕は無名の静かな、しかし、勇気ある決断に希望と動揺を感じたのだと思う。