悪の自覚 ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』

 ヘンリー・ジェイムズといえば、『デイジー・ミラー』などのいわゆる国際状況ものや奇妙な幽霊譚『ねじの回転』などで知られ、カフカプルーストに代表される20世紀文学の先駆的存在なんてことも言われるが、『鳩の翼』を読んでみて、19世紀と20世紀、アメリカとヨーロッパ、メロドラマ的題材と現代小説的文体などほんとにいろんなものの交点に位置する作家なんだと思った。
 ニューヨーク育ちの若い女性ミリーは、孤児で莫大な遺産を相続した。しかし、不治の病で余命いくばくもない。ミリーはイギリスからやってきた新聞記者マートン・デンジャーと知り合う。マートン・デンジャーにはケイト・クロイという聡明で非常に美しい婚約者がいる。デンジャーは貧しく、ケイトも伯母のモード・ラウダー夫人の庇護を受けている身。伯母の許しがなければ結婚には簡単に踏み切れない。伯母は美しいケイトを有力な人物と結婚させ、社交界に出たいともくろんでいる。
 そんなときミリーがスーザン・ストリンガム夫人を付き添いとしてイギリスにやってくる。ストリンガム夫人は、ラウダー夫人の旧友で、ミリーとストリンガム夫人はラウダー夫人の屋敷に招かれたことにより、ケイトと知り合い、のちにマートンにも再会する。ミリーとケイトはお互いを親友と認める間柄になるが、ケイトはマートンが婚約者であることをミリーには隠していた。ケイトはミリーがマートンに恋心を抱いていることを見抜き、マートンをミリーに近づけようとする。ケイトはミリーとマートンを結婚させ、ミリーの財産をマートンに相続させようと企んでいたのである。はたしてケイトの企みは成功するのだろうか。
 とまあ、ざっとあらすじだけ記せば、実に明快なメロドラマなのだが、青木次生翻訳の講談社文芸文庫版の『鳩の翼』は、上下巻合わせて900ページを超える大長編。とにかく心理描写が多い。しかも、あまりにも精緻な心理描写は、登場人物の心理状態を明快にするどころか、読むものを霧の中に迷い込んだような気持ちにさせる。しかも、作中人物の会話がまたいらいらさせられる。主語をわざと言い落とし、はっきりしたことはできるだけ言わない腹の探り合いのような会話がえんえん続く。結果、メロドラマ的な題材が扱われているにもかかわらず、作中の出来事は霧の中にぼんやりとかすんで見える現代小説的外見を持つ。
 ケイトは美しく聡明で、結婚し伯母からの独立を目指している。しかし、財産のないデンジャーと結婚するほど独立への意志は強くないし、貧乏生活に甘んじようとも思っていない。ミリーはいわゆる美人ではないが、感受性が豊かな女性で、生活の苦労を知らず、不治の病を抱えたいわば無垢の存在である。デンジャーはケイトとの結婚を強く望んでいるが、結果的にはケイトの言いなりになってミリーに近づく。
 ケイトとミリーの違いは、結局のところ生活の有無である。ミリーには財産があり、しかも死期が迫っている。彼女は自分が死んでこの世からいなくなるという恐怖と戦わなければならないかわりに、これからも生き続けることの苦労を背負っていない。ケイトには生きることは汚れることだという自覚がある。ケイトの父親は作品の冒頭と最後にちらりと顔を出すだけだが、彼は何か犯罪(?)を犯して一家を没落させた。ケイトは自分が美しいことを自覚し、その美しさは財産家の伯母に庇護されているから保てること、また伯母が彼女を庇護するのは自分が美しいからだということを知っている。したがって、金がない相手との結婚は、ケイトには考えられないということになる。しかし、小谷野敦が指摘するように彼女はさっさと財産がある有力者と結婚することもできたのである。それをしなかったのは、ケイトがデンジャーを愛していたからにほかならない。生きるとは悪を自覚することであり、ケイト・クロイはそれを知り抜いていたからこそ、一度もぶれなかったのだ。