ストーリーテラーのスパイ小説 モーム『アシェンデン』

「もしこの作品に欠陥があるとすれば、それはあまりに面白すぎるということだろう」(ちくま文庫河野一郎による「訳者あとがき」より)
 第一次大戦中、英国のスパイだったモームの体験をもとに書かれたこの小説は、一話完結の短編小説の形式をとっているが、作者の分身であるアシェンデン(スパイで作家)をはじめ、作中の登場人物などを共有することで、全体としては長編小説としても読める。『007』とか『スパイ大作戦』にあるようなメカや派手なアクションがあるわけではなく、情報一つ伝えるにも何日もかかり、それが伝えられたときには、すでに新たな状況が生じているという実に悠長なスパイ物。
 情報部の大佐の指令でジュネーブに派遣されたアシェンデンは、当地で情報収集や各地に散らばるスパイへの連絡係のような仕事する。将軍を名乗る女好きの「毛無しのメキシコ人」、旅芸人の踊り子、おしゃべり好きの米国人ビジネスマン、美貌の男爵夫人、ロシアの革命家の娘など、アシェンデンがスパイ活動を通じて遭遇するのは、奇妙でキャラ立ちした人物ばかり。踊り子を使って、その恋人をおびき出すとか、自分の命が危ないときにクリーニングに出したシャツを気にする男とか、完璧な英国人紳士に見えた大使の若き日のロマンスとか、モームの話芸がさえる。確かにおもしろいんだけど、スパイ物というより、よくできたメロドラマを読んでいるような気がする。正月休みののんびりした読書にはちょうどよかったけど。
 ちくま文庫発売当時、最初に引用した一文は帯にも使われていたと記憶している。そんなにおもしろいのかと思ってこの本を買ったのだから、十分惹句としての役割を果たしたことになる。まあ、読後の今思えば、良くも悪くも『アシェンデン』評はこの一言に尽きる。この小説の古臭さというか、大時代な感じは、舞台となった時代によるのではなく、作りこまれた物語からうける印象なのだ。
 ちなみに、ヒッチコックの英国時代の映画『間諜最後の日』は、『アシェンデン』の中のいくつかのエピソードを使ったもの。『M』で殺人鬼を演じたピーター・ローレがメキシコ人役を演じている。