ファブリスは成長しない スタンダール『パルムの僧院』

限りなく透明に近いブルー』の主人公リュウの女友達リリーが『パルムの僧院』を読んでいた。ドラッグに溺れ、荒廃した若者の日常を描く『限りなく透明に近いブルー』の世界と対照的な静かな僧院の生活を想像して、なんとなくそのままにしていたけど、読んでみてびっくり。波瀾万丈の冒険活劇がつぎつぎに展開するすごい話なのである。
 舞台は19世紀前半、イタリアの小国パルム。超イケメンで貴族の青年ファブリスは、ナポレオンのワァテルローの戦いに参加するなど向う見ずな行動で母親や叔母のサンセヴェリナ公爵夫人を心配させてばかりいる悪い子なのだが、その美しさと純真無垢な悪童ぶりゆえ、女たちに愛される。とくにサンセヴェリナ公爵夫人は生涯をかけて、ファブリスの庇護者となった。
 かっこよくて、家柄がよく、女にモテモテで、絶対的な庇護者がいる、陰謀渦巻く社交界を生きる才能もある、そんな青年が主人公が唯一知らないのが恋。愛されてばかりで、愛した経験がないのだ。
 彼はあるとき女に手を出したせいで、旅芸人の男に襲われ、その男を殺してしまう。政争のあらしが吹き荒れるパルムの宮廷では、サンセヴェリナ公爵夫人と首相モスカ伯爵の対抗勢力がこの機に乗じて、伯爵夫人の愛するファブリスを城塞の塔にある牢に幽閉してしまう。ファブリスはそこでついにパルム一とうわさされる可憐な美女クレリアに出会う。クレリアは城塞の牢を監督する将軍コンチの娘で、罪人と監督者の娘というだけでも道ならぬ恋。コンチが公爵夫人の対抗勢力であったことから、ことはさらにややこしくなる。
 この長い小説、前半はちょっとたいくつ。後半、クレリアとの恋愛が始まるところから一気におもしろくなる。塔に閉じ込められたファブリスと城塞に住むクレリアの秘密の通信、ファブリス毒殺の危機、牢獄からの大脱出などなど、こんな荒唐無稽が許されていいのかと笑いながらもやめられない。前半と後半の色調の違いもこの小説の特徴で、前半の明るく輝くようなファブリスの若さが、恋を知った後半は影をひそめ、立ち止まり、臆病になる姿が目につくようになる。公爵夫人もまた、ファブリスの心をクレリアが占めていることに絶望する。公爵夫人を愛するモスカ伯爵は、才気にあふれ若々しかった夫人がファブリスの恋を知り、変わり果ててしまったことに狼狽する。モスカ伯は、かねがねファブリスの若さを妬みんでいた。主要な登場人物が、恋を知り、年をとっていく。あるいは、恋することが人生の有限を強く意識させる。しかし、ファブリスという主人公は年を取りはしても、成長はしない。少年のような一途さで恋しい人を思い続けるのである。輝きだけでできているようなファブリスの生は、恋の終わりが生の終わりを意味する。
 ファブリスのような若さの象徴のような生き方、サンセヴェリナ公爵夫人のような自分の年齢を意識しながら年下のイケメンの庇護者になる生き方、公爵夫人の心が自分には向けられていないことを意識し、ときにファブリスへの嫉妬にかられながらも公爵夫人やファブリスへの援助を惜しまなかったモスカ伯の生き方など、読む人によってだれに感情移入するかも変わってきそう。
 でも、この小説のおもしろさは何といっても、ファブリスとクレリアの恋の行方にある。信じられないハラハラドキドキのストーリー、忘れられない場面の数々、小説を読む楽しさをたっぷり味わえるぜいたくな一冊。