母物のおわり 笙野頼子『母の発達』

 日本文学と母との縁は切っても切れない。「第三の新人」を取り上げた江藤淳の評論『成熟と喪失』の副題は「母の崩壊」。江藤は庄野潤三安岡章太郎小島信夫らの作品を通じて、戦後日本の「母なるもの」が崩壊してゆくさまを論じた。『赤頭巾ちゃん気をつけて』の薫くんは世界中の電話という電話は母親の膝の上にのっているんじゃないかと嘆いていたが、電話だけではなく、あらゆるものがお母さんの膝の上にのっていた。
 芥川賞を受賞した作品をいくつか見てみよう。長嶋有『猛スピードで母は』、やっぱり母はすごかった。川上弘美『蛇を踏む』、お母さんとはつかずはなれず。モブ・ノリオ『介護入門』、おばあちゃん=年老いた母。川上未映子『乳と卵』、母と娘である以前に女。最近の母物は、いわゆる母物への批評という側面を持つ。
 笙野頼子の『母の発達』は、いわば母物のお葬式。母は縮小し、発達し、分裂し、増殖し、回転し、昇天する。笙野頼子は本気で母物と向き合い、それをきちんと葬ろうとする。「(…)母のその日の機嫌が私の幸不幸を決定するという状況が長年続いた(…)」「(…)機嫌の悪い母から逃げ出すというたったそれだけの行為が、当時の私には出来なかった」という極端な母子密着の中で、「私」が生き残るためには、母を殺す以外に方法はなかった。母親との距離の取り方が批評性であるなら、母を殺すのは、お母さんが好きすぎるからである。母親への深い愛情という意味で、『母の発達』は折り目正しい母物であり、その主人公だけが死にゆく母にきちんとあいさつできたのである。