『成熟と喪失』に始まる 加藤典洋『アメリカの影』

 江藤淳の長編評論『成熟と喪失』(1967年刊)は、小島信夫抱擁家族』や庄野潤三夕べの雲』といったいわゆる第三の新人の作品を取り上げ、高度成長下における「母」(女性、自然)の崩壊とそののちにくる成熟の可能性を論じた、「戦後」という時代を考えるとき欠かすことのできない本である。加藤典洋の『アメリカの影』は江藤の問題提起を考察の出発点として書かれた3つの評論「『アメリカ』の影」「崩壊と受苦」「戦後再見」が収録されている。
 加藤は「国破れて山河あり」という抒情が敗戦後の日本人を支えたことに言及し、「日本人の自己同一性というようなものが想定でき」るなら、「その根拠は国家でも天皇でもなく、自然だったといわなくてはならない」と書いている。戦後の高度成長期にその自然が次々に破壊されていくさまを、「母」の崩壊として描いた江藤は、そうした崩壊ののちに、真の成熟した近代社会が訪れることを期待した。『成熟と喪失』の最終章に江藤は次のように書いている。
「(…)近代のもたらしたこの状態(「母」が存在し得ないこと−引用者)をわれわれがはっきりと見定めることができるようになったとき、『個人』であることを余儀なくされている自分の姿を直視できるようになったとき、あるいはわれわれははじめて『小説』というものを書かざるを得なくなるのかもしれない」
 しかし、加藤が指摘するように、江藤は個人であることを余儀なくされている自分の姿を直視することができず、個人を守るものとしての「父」(国家)を求め、保守の論客となった。「江藤があの『成熟と喪失』の問題設定をもちこたえられなかった」その地点から、『アメリカの影』は始まっている。
 そこに取り上げられるのは、水俣病を扱った石牟礼道子の『苦海浄土』や富岡多恵子の『波うつ土地』である。『夕べの雲』の主人公(男)は壊されゆく自然を危惧し、その光景を見て怯えもしたが、その18年後に書かれた『波うつ土地』の主人公(女)は、彼女自身が「一個の『崩壊した自然』として」描かれている。自然を壊したのは誰か。加藤典洋も言うようにそれは日本人自身である。日本人は自分の手で、経済成長とひきかえに、よりどころとしての「山河」を破壊していったのである。
 みにくい「自分の姿を直視する」のは難しい。江藤が『成熟と喪失』で「母」の崩壊を描いた後、その地点にとどまることなく、戦後の占領政策の中に閉塞状況の根を見ようとしたように、アメリカのせいでとか、押しつけ憲法のせいで、といった論法に行きがちである。問題の根を一つの原因に求めようとするのは、ハリウッド映画のヒーローものみたいなもので、一種のフィクションである。
 三つ目の「戦後再見−天皇・原爆・無条件降伏」と題された評論は、副題が示すように天皇・原爆・無条件降伏が不可分の関係であることを、さまざまな文献を引用しながら論じたもので、「戦後」とはどのような父であり母であるのかを考察している。「不思議なメビウスの環的“戦後”構造の根源を『原爆』に見る時、ぼく達はその背後に天皇制の問題を見落とす。しかし同じそこに天皇制の問題を見る時、ぼく達はもう一つの『もっとも怖るべき権力』、世界に君臨する核の問題を見落としているかも知れない」
 加藤はこのように書き、戦後の問題の根を、いわば戦犯のように一つの根本原因に絞ることの無意味さを主張するが、一方で、天皇・原爆・無条件降伏というそのどれもが、わたしたちにとって受身のものであることが気にかかる。支配され、投下され、受け入れさせられた。一度も能動的でなかったものから、戦後という時代が生まれているというのは、本当なのか。これは江藤淳がしたことを、より巧妙に行っているだけのように思える。