いつになったら目が覚めるのか 夢野久作『ドグラ・マグラ』

「狂気の書」とか「稀代の奇書」とか評される夢野久作の『ドグラ・マグラ』(小栗虫太郎黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』とともに日本探偵小説三大奇書と言われるらしい)。文庫の表紙を見てもどんなエログロ世界が展開するのかとちょっと身構えてしまう。『ドグラ・マグラ』は、確かにそのインパクトにおいて「奇書」と呼ぶにふさわしいし、いわゆる「探偵小説」でもないが、けっこう「まとも」というのが、ぼくの正直な感想である。
 語り手「私」が目を覚ますと、見知らぬ部屋にいて、自分に関する記憶を完全に失っていることに気づく。そこは九大医学部精神病科の病棟だった。駆けつけた若林教授は、何者かにマインドコントロールされていた呉一郎という青年が実の母親と婚約者を絞殺した猟奇的事件について説明し、「私」がその事件の生き残りであること、九大の天才精神科医正木教授と若林教授が犯人逮捕のため警察に協力していること、したがって「私」の記憶の回復が事件解決の鍵を握っているという事実を知らされる。
 由緒正しい名家で裕福だった呉家には、先祖代々伝わる絵巻物がある。その絵巻物は、呉家の血をひく男子はけっして見てはならない。見れば発狂するという言い伝えがあった。呉家の男子は精神疾患の遺伝的因子を持っていて、絵巻物が発病の引き金になるという事実を知った何者かが故意に呉一郎にその絵巻物を見せたことから事件が引き起こされた。『ドグラ・マグラ』のすごいところは、呉一郎に絵巻物を見せた人物は誰なのかという犯人探し(=唯一の真実)への興味をえさに読者を多義性の迷宮に誘い込むところである。
まず、メタフィクション的な仕掛け。若林教授の研究室で「私」は大学生だった青年の狂人が書いた『ドグラ・マグラ』という冊子に目を止めた。若林教授の説明によると、それは「今までに類例のない探偵小説」であり、「科学趣味、猟奇趣味、色情表現(エロチシズム)、探偵趣味、ノンセンス味、神秘趣味なぞというものが、全篇の隅々まで百パーセントに重なり合っているというきわめて眩惑的な構想」なのだという。若林教授は『ドグラ・マグラ』の説明をさらに続けるが、その内容は読者が読み進めつつある夢野久作の『ドグラ・マグラ』とぴたりと一致する。
次に、多様な文体。『ドグラ・マグラ』の特徴の一つは実にさまざまな文体によって構成されていることだ。正木教授が精神病院の過酷な現実を伝えるために作り、全国を周ったという「キチガイ地獄外道祭文」。さらに胎児は母親の胎内で生命の誕生から厳しい生存競争、人間が犯してきた数々の罪業の悪夢を見ているとする正木博士の卒業論文『胎児の夢』。映画を見ながら、弁士が説明を加えるという奇妙な設定の「空前絶後の遺言書」(この中で呉一郎が実母と許嫁を殺害した経緯が説明される)。若林教授による事件関係者への聞き取り調査や覚書。呉家ゆかりの寺である如月寺縁起は擬古文で書かれており、呉家中興の祖である虹汀による大活劇が語られる。物語の核心である絵巻物とその由来記は、時は千二百年前、舞台は中国の唐。呉青秀という唐代の画家がいかにして呉家伝来の絵巻物を描いたかという顛末が語られる(つまり、呉一郎による犯罪の種は千年を超える過去の出来事に由来する)。
最後のキーワードは夢。夢野久作はなぜこれほど多様な文体を駆使したのだろうか。その理由の一つとして考えられるのは、『ドグラ・マグラ』に描かれる出来事が、語り手「私」の見ている夢である可能性だ。夢の中では時の流れが一様ではなく、出来事のつながりに脈絡がない。正木教授の論文『胎児の夢』は『ドグラ・マグラ』という小説の核のようなもので、胎児が見る悪夢は、『ドグラ・マグラ』の語り手「私」の体験しつつある出来事と重なり合う。胎児が生まれる前の因縁により、人間のあらゆる罪業を背負わされるように、過去の記憶を失っている「私」もうすうす自分が呉一郎ではないかと疑っていて、身に覚えのない犯罪の犯人に仕立てられようとしている。「私」が罪人であることを認めさせようとしているもの、それは呉家の人間であるという血統、言い換えれば「父」である。「父」は罪の自覚とともに「私」をこの世で正気づかせようとしている。
ぼくが『ドグラ・マグラ』を「まとも」と言ったのは、エログロ、ナンセンス、猟奇的事件、多様な文体といったさまざまな意匠の深層に父と子の葛藤という極めて古典的なモチーフがあるからである。さて「私」は本当に呉一郎なのか、呉一郎であることを認めて(思い出して)罪人として生きていくのか、あるいはぼくは呉一郎ではないとはっきりと主張するのか。そのどちらも選択することなく、物語は「私」が目を覚ましたとき聞いた「ブウウンンンン」という奇妙な物音とともに闇の中に没し、円環を閉じる。しかし、『ドグラ・マグラ』は私たちがまだ胎児や「私」と同じようにまだ眠ったまま悪夢を見ているかもしれないこと、同時に目覚めの可能性を提示したのである。