無時間からビルドゥングスへ 中勘助『銀の匙』

銀の匙』というと、荒川弘の漫画(吉田恵輔監督の実写版よかった!)を思い浮かべる人も多いと思うけど、本書の作者は中勘助。前篇が明治44年、後篇が大正2年に書かれた。幼年期から17歳までのさまざまな出来事が作者独自の視点で描かれている。夏目漱石が未曾有の秀作として絶賛したという『銀の匙』について文庫解説の和辻哲郎は、「大人の見た子供の世界でもなければ、また大人の体験の内に回想せられた子供時代の記憶というごときものでもない。それはまさしく子供の体験した子供の世界である」と評している。
銀の匙』はぼくにとって驚きに満ちた読書体験だった。それは書く「私」と書かれる対象との距離が一定でないことから生じるめまいのような感じと変拍子の曲を聴いているときのような不安定感である。
「いくじなしの私は人なかでは口がきけずなにかほしいものが目に付けば袂をつかんだまま黙って立ちどまってしまう。すると伯母さんは心得てあたりを見まわしあれかこれかとたずねる。うまくあたるまではいつまでも首をふってるがよくよくあたらないとしかたなしにそっと指さしをして、その指をはずかしそうにひっこめて口にくわえる。」
「たくさんのおもちゃのなかでいちばんだいじだったのは表の溝から拾いあげた黒ぬりの土製の小犬で、その顔がなんとなく私にやさしいもののように思われた。伯母さんはそれをお犬様だといって、あき箱やなにかでこしらえたお宮のなかにすえて拝んでみせたりした。それからあのぶきっちょな丑紅の牛も大切であった。これらは世界にたった二人の仲よしのお友だちである」
 中勘助は27歳のときこれを書いた。語彙といい、的確な描写といい、明らかに大人でなければ書けない文章だが、かつての自分に対する価値判断がないので、いつのまにか子供が憑依しているかのような気味の悪さがある。ぼくの少ない読書体験では、この手の対象との距離感をあえて無視したような書き方ができるのは、内田百閒や武田百合子が思い浮かぶだけである。彼らの特徴は無時間的世界である。氷漬けのマンモスのように、幼年時代を時間の流れから取り出してみせる。
 しかし、中勘助はここからさらに転調する。お稲荷さんの縁日や見世物小屋の出し物、伯母さんとのチャンバラごっこといった幼年期の無時間的世界から一転、堂々たる成長物語が始まるのだから驚きである。学校に行くことによって、大人の社会の影響を受けざるを得なくなる。教師や級友との関係、兄との確執、伯母との別れ、大人の女性へのあこがれ…。前半と後半ではまるで違う小説を読んでいるような感覚にとらわれる。一貫性ということが、あるいは、均質性ということが近代の形だとすれば、内田百閒や武田百合子でさえしっかり「近代している」のである。そういう意味で中勘助の『銀の匙』は奇跡の書。夢野久作よりこっちのほうが「奇書」だと言ったら言い過ぎだろうか。