少年の世界 その3 ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』

 ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』を読んだついでに、その裏バージョンとも言える『蠅の王』を手に取ったのだけど、「ついで」で読むような気軽な本ではなかった。
 時は近未来。第三次大戦が勃発したと思われる世界で、英国の少年たちを乗せた疎開途中の飛行機がとある南海の無人島に不時着した。生き残った少年たちは、予期せぬ休暇を与えられた解放感にひたりながら、集会を開いて「隊長」を決めるなど「楽園」での生活に一定の秩序をもたらそうとする。
 ほら貝を鳴らして集会の合図にする。ほら貝を持っている者に発言の権利がある。山の上でのろしを上げ、火を絶やさないようにする。いくつかの決まりが作られた。ところが、不思議なことに島に少年たちが何人いるのかわからないのだ。
 少年たちには大きい子とちびっ子たちがいて、隊長に選ばれたラーフ、でぶで頭のいいピギー、権力志向の強いジャックなど大きい子には名前がついている。一方で、小さい子たちは、群れで生活する動物のようにふるまうばかりで、いまだ一個の人格が芽生えていない。こうしてゴールディングは秩序を形作ろうとする少年たちの意志に反する「自然」状態をたくみに小説世界に導入する。
 うまいなあと思うのはこういうところで、『十五少年漂流記』が少年たちだけの疑似国家、小社会を形成し、「自然」を制することで生き抜くのに対し、『蠅の王』は表面的には二つのグループに分かれたことによる対立が秩序崩壊の引き金に見えるが、その下地にはどうすることもできない「自然」があることを「ちびっ子たち」の存在が示唆している。
 ジャックが狩猟隊を組織し、野ブタ狩りの興奮に我を忘れるようになるにつれ、航行する船から見えるようにと始められた烽火の煙は途絶えがちになる。ついにはラーフやピギーら数人の大きい子たち以外は、ジャックにしたがうようになる。狩猟隊の少年たちは皆蛮人のように顔を泥や血で塗りたくったり、仮面をつけたりする。「豚ヲ殺セ。喉ヲ切レ。血ヲ絞レ」ブタを仕留めるたびに不気味な歌声が響く。
 そして、このジャック率いる狩猟隊の行動を深層で規定するのが「恐怖」だ。ことの始まりはちびっ子の一人が森の中で獣を見たと言い出したことだ。大きい子たちはその存在を否定するが、彼らの中に潜む恐怖心がその存在を信じさせるようになる。ジャックは捕獲したブタの首を棒に突き刺して、これを森の獣に捧げればよいと考える。小説の中で蠅の王と呼ばれるのは、蠅がたかって黒く見える腐敗したブタの首のことだ。訳者平井正穂の解説によると、「蠅の王」とは聖書に出てくる悪魔ベルゼブルのことだというが、ここまで来て、ようやく小説『蠅の王』の核心に触れることができる。
『蠅の王』はしばしば「悪の問題をその中核としている小説」(平井正穂)だと言われる。解説には「子供たちが要するに小さな大人だ」ともあるが、本書を大人社会の縮図として読むことで見えなくなるものもある。
『蠅の王』の少年たちが知らなかったのは、自分たちの中にある「自然」である。彼らはきっとそうしたものの声を聞き慣れていなかったのだ。それは、最初に森に獣がいることを言い出した「小さい子」のことを無視したこと、その子を抹殺したことでもわかる。森や闇を怖いと思う。ブタを殺せば興奮する。『蠅の王』の少年たちは、島に来て聞こえてきた声に従っただけだとも言える。その結果生じた闘争と殺戮を悪と名付ける前に、孤島で剥き出しになった内的な自然の嵐が吹き荒れるのをじっと見ておいたほうがいいと思う。