現実へ その2 辺見庸『もの食う人びと』

 書評サイトHONZの代表、成毛眞によるその名も『面白い本』(岩波新書)には、選りすぐりのノンフィクション100冊が紹介されているが、「鉄板すぎて紹介するのも恥ずかしい本」として紹介されているのが、本書『もの食う人びと』である(他にトルーマン・カポーティの『冷血』やリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』など)。今や古典的名作である。
 辺見庸が飽食の日本で「忘れかけている味」を求めて異境へと旅立ったのが1992年末、それから94年の春まで東南アジア、東欧、アフリカ、ロシア、韓国をめぐり、「食」の風景を見て感じて味わったルポルタージュダッカのスラムでは屋台で残飯が売られている。残飯は市場で流通していて卸売や小売りもあるという。飢餓と内戦に苦しむソマリアでは結核と栄養失調で死を待つだけの枯れ枝のような少女に出会う。ウクライナチェルノブイリ原発に近い村では放射能に汚染されたキノコ入りのスープをすする。村人たちはウオツカや赤ワインは放射能を洗うと信じている。もちろん、貧しく、苛酷な食の風景ばかりではない。タイはバンコク郊外の世界一大きいレストラン。5千人が同時に食事できる。作者が食べたのはスズメの姿焼き。あるいは、エチオピアの南西部、大規模なコーヒー農場がある地域のコーヒーの飲み方。地元の食堂でコーヒーを注文すると次のように問われる。「バターにします、塩にします?」そこから先も大変なのだが、それは本書を手に取ってもらいたい。
 ノンフクションを読む醍醐味は、知らなかったことを知る楽しさだ。各地の食の風景から日本を考え直すこと。それが辺見庸の出発点だった。しかし、「食」というテーマを超えて最も印象に残ったのが、辺見が本書の最後の章とした「ある日あの記憶を殺しに」だった。ソウルの日本大使館前で割腹自殺未遂を起こした韓国人元従軍慰安婦3人の物語だ。苛酷な体験の記憶が彼女らを苦しめる。しかし、同時に彼女らは優しかった日本兵の面影を心に留め、彼らを初恋の相手とまでいう。彼女らがいかに苦しく辛い現実を生き抜いて来たか、それを「初恋」の記憶は物語っている。「仕方ないですよ。だれでも初恋しますよ。日本の兵隊でも恋人なのよ」「ハシカワさんに、うちの淋病うつしたね。ハシカワさん、お土産としてあの世に持っていきます言ったね」。彼女らは「初恋」をお守りのように持つことによってかろうじて現実を生き抜くことができたのだと思う。
 出来事は「物語」として理解される。それは本書のようなノンフィクションでも同じことである。出来事をどのような「物語」として理解するかは、人によって違う。国家やイデオロギーといった大きなものに自分を見出そうとするとき、出来事の細部にどのような矛盾や差異が含まれているかということを見過ごしがちである。従軍慰安婦問題に関して、「日本だけではない」的な発言が相次いでいるが、それはある出来事を個別のものとして、自分の中を通過させたことがないからだと思う。あの子も持ってるから僕もほしいとか、僕よりも先にあの子がけんかを売ってきたというのと同じだ。『もの食う人びと』のようなノンフィクションは、そういう大きな物語に身を寄せる前に、さまざまな出来事を追体験することの重要性を痛感させてくれる。