家守が守っているもの 梨木香歩『家守綺譚』

 ボートで湖に出たまま行方不明になった学生時代の親友高堂の家に「家守」として住み込むことになった駆け出しの物書き綿貫征四郎(=私)は、その家で亡き友、狐狸や小鬼、河童、植物の精など、つぎつぎと不思議な体験をする。しかし、『家守綺羅』はあくまで穏やかで少しさびしい。怪異といってもいいはずのものたちが、綿貫征四郎を脅かすことはほとんどない。それはなぜだろうか。
 物語の舞台は、叡山、吉田山、南禅寺、疏水などから京都の左京区あたり、時代は、単行本の帯に「それはついこのあいだ、ほんの百年すこしまえの物語」とあったことから、文庫の解説者は、明治30年代後半ぐらいと推測している。きのう中勘助の『銀の匙』を読んでいたら、次のような一節が出てきた。
「伯母さん夫婦は大の迷信家で、いつぞやなぞは 白ねずみは大黒様のお使いだ といって、どこからかひとつがい買ってきたのを お福様 お福様 と後生大事に育てたが、ねずみ算でふえるやつがしまいにはぞろぞろと家じゅうをはいまわるのをおめでたがって(…)」
 おもしろいのか怖いのかよくわからない衝撃。『銀の匙』は前半が明治44年に書かれている。作者が27歳のときの作だから、おそらく明治20年代のことだろうと思う。さらに明治30年代と言えば、泉鏡花が代表作『高野聖』などを書いていた。もう少しのちの時代になるが、梨木香歩が綿貫征四郎の見た夢を書くとき参考にしたに違いない内田百閒の処女作『冥途』が大正11年に出ている。鏡花や百輭がくり返し書いた怪異は、作中人物の存在自体を脅かしかねないものだった。
 梨木香歩の『家守綺羅』を読んで感じたのは、書き手の誠実さとともに、現代に怪異を書くことの難しさだ。綿貫は「家守」という立場であるにもかかわらず、台所の床下から出てきたカラスウリを引き抜こうとはしない。長虫屋に白木蓮タツノオトシゴをはらんだ蕾を売ってくれと大金を提示されたときも、気丈にはねつけた。庭の池で人魚を見つけたときは、ネットを張ってサギから守ろうとした。家守であるはずの綿貫が必死に守ろうとしているのは、家ではなく、時代から消え去ろうとしている怪異そのものなのである。物語の時代を明治に設定しても、現代小説に何の根拠もなく超自然現象など書けるわけがない。それが作者の誠実だが、昔から人を脅かしてきたものたちが、人に守られなければならないのというのは、ずいぶん皮肉な話だ。
 家守であると同時に物書きでもある主人公が、あの世の記述を試みたとき、物語も幕を閉じるのは、当然と言えば当然なのかもしれない。