「なんだか疲れてしまったみたいだから…」 金井美恵子『恋愛太平記』

 批評家というのはかわいそうな人たちで、何らかの参照枠がなければ、すぐに立ち往生してしまうと文庫解説で皮肉っぽい口調で書く斎藤美奈子は、『細雪』『台所太平記』『若草物語』に言及した『恋愛太平記』の書評を紹介しているが、金井美恵子の小説ほど映画や小説などの先行作品を夢想する誘惑に満ちたテキストはない。
『恋愛太平記』は、1980年代の東京と東京から電車で約1時間という距離にある地方都市を舞台にした四姉妹(長女夕香31歳、次女朝子28歳、三女雅江25歳、四女美由紀24歳)の10年弱にわたる物語だ。タイトルからも想像できるように、ストーリーは四姉妹の恋愛と結婚を軸に進むが、一般的な小説にあるような主人公の「成長」にこの小説は全く関心がない。それは『恋愛太平記』の特徴の一つである文体に表れている。ある部分は姉妹のおしゃべりで、ある部分は姉妹の衣食住に関する驚くほど細密な描写で成り立つ文体は、小説や映画に限らず、おびただしい「商品」に言及する。恋愛や結婚、あるいは肉親の死といった人生を左右する出来事と、姉妹の口にする食べ物や、身に着ける装飾品、いつも使っている化粧品などがこともなげに並置されている。
「細部に淫することで生じてしまう小説の物語的機能の失調状態の楽しさ」と作者自身が「あとがき」に書いてるように、『恋愛太平記』を読む楽しさは、「細部に淫する」以外にないと思う。同時に1980年代に入り、消費活動が個人の輪郭を形作る時代を象徴的に描いている小説でもある。この小説をジェンダー的な視点で読むべきかどうかは難しいところだが、忘れられないことがあったので、個人的なことだが、書いておく。
 朝子、美由紀、母親、叔母というメンバーが、デパートで買い物した後、フランス料理店に入ったときのこと。レストランの待合室に通された四人は、そこで中から出てきたにぎやかなおばさんのグループに行き合わせるが、そのおばさんの一人は、待合室にかかったレオノール・フィニーの絵を見て、「あら、これ、マリー・ローランサンでしょう、あたし好きなのよ」と感心するという場面がある。おばさん的なものに対する作者の意地の悪さはさておき、ぼくはレオノール・フィニーの絵をちゃんと知らなかった。友達にこの話をしたら、レオノール・フィニーの画集を見せてくれた。それで初めてフィニーの絵を見て、ほんとにショックを受けた。それは戦う女の絵、男性が見る対象としての女の絵にあるような甘さ、媚態はみじんもない絵だった。朝子たちが行くレストランにレオノール・フィニーの絵が飾ってある。フィニーがどんな絵を描くのかを知った今、『恋愛太平記』はまた違った意味を持って見えてくる。四姉妹がなにやら孤独な戦いのさなかにいるようにも思えてくるのだ。
『恋愛太平記』は、四姉妹のうち、上の二人、夕香と朝子が結婚に失敗したり、なかなか結婚できなかったりするが、二人は男関係でうまくいかないことがあるときまって「なんだか疲れちゃった」と言って、ものうげにごろんと横になる。いったい夕香も朝子も何に疲れているのだろうか。夕香は意志的な選択として結婚を拒否しているのではなく、なんとなくいやだという気分で結婚を拒否してしまう。ただ、いやなことをいやだという難しさ。アンチ成長小説という視点で『恋愛太平記』を見たとき、金井美恵子が描きたかったのは、文体のレベルで成長(結婚)を拒否するために生じる「倦怠」そのものではなかったかと思えてくる。