二人はなぜ灯台をめざしたか 吉田修一『悪人』

『悪人』は朝日新聞に連載され、2007年の毎日出版文化賞大佛次郎賞を受章。2010年には李相日監督、妻夫木聡深津絵里主演で映画化された吉田修一の代表作の一つ(ちなみに今年9月には同じ原作・監督のコンビで映画『怒り』の公開が控えている)。こんな話題作を今ごろ読んだのは、映画を見てしまったからだ。どうもぼくにはピンとこなかった。とはいえ、映画と原作小説は別物。結論から言えば、読んでよかった。
「悪人」とは一体だれなのか、多くの読者はこんな疑問を胸に本書を読み始めるにちがいない。長崎の土木作業員・清水祐一は、出会い系サイトで知り合った保険外交員・石橋佳乃を殺害してしまう。祐一と佳乃は、福岡のとある公園で待ち合わせの約束をしていた。ところが、佳乃は待ち合わせ場所に偶然通りがかった大学生増尾圭吾の車に乗ってしまう。増尾は裕福な老舗旅館の一人息子で、大学でもいつも取り巻きがいる派手な生活を送っていた。佳乃は久留米出身で、実家が理髪店であることを恥じるほど見栄っ張りな女。イケてる大学生増尾圭吾に憧れ、仲のいい同僚には増尾とつきあってるとうそをついていた。
 翌日、福岡と佐賀を結ぶ打ち捨てられた国道の峠で、遺体となった石橋佳乃が発見されるが、警察はその日から姿を消した増尾圭吾を殺人の重要参考人として後を追っていた。一方、清水祐一はその後も何事もなかったかのように日常生活を送っていた。そんなある日、祐一は、以前出会い系サイトを通じてメールを送っていた馬込光代という女からメールをもらい、意気投合。光代が住む佐賀で会うことになる。馬込光代は、佐賀の洋服量販店で販売員をしている地味な女だった。祐一と光代はすぐに恋愛関係に発展。つきあうようになる。
 二人の運命を大きく変えたのは、増尾圭吾が警察に身柄を確保されたこと。増尾の供述により、一転、祐一は殺人の容疑者となり追われる身に。祐一が光代に殺人の罪を告白すると、出頭するという祐一に対し、光代は意外にも一緒に逃げようと持ちかけた。このようにして祐一と光代の絶望的な逃亡劇が始まった。行先は今はもう使われていない灯台だ。
 もう一度、最初の問い、悪人とはだれかという問いに戻ろう。本書の大胆で周到なタイトルは、読者に考えることを促すのだが、読みながら頭を何度もよぎったのは、なんてさびしい小説だろうという思いだ。実のところ、だれも「悪人」という言葉から連想されるような、自覚的かつ確固とした内面など持っていないのである。自分をよく見せることばかり考えていた石橋佳乃。彼女は他人の欲望しか生きられない女だ。裕福な大学生で、他人を尊重するという意識をみじんも持っていない増田圭吾。彼に考えられるのは、せいぜい生き延びるための保身ぐらいだ。佳乃の父親が怒りの矛先を向けたのは、直接手を下した祐一ではなく、峠に娘を置き去りにした圭吾である。からっぽ。こんな言葉が自然に思い浮かぶ。
 しかし、本当の意味で埋めなければならない大きな空白を抱えていたのは、祐一と光代だ。買い物に行ってもほしいものが見つからないという光代、そして、実の母に捨てられた過去を持つ祐一、二人はなぜ逃亡という非現実的な選択をしたのか。この問いは、次のように言い換えられる。すなわち、「二人はなぜ灯台をめざしたのか」という問いである。彼らは、これまでずっと失い続けてきたもの、奪われ続けてきたものを一気に取り戻そうと危険な賭けに出たのである。
光代は言う。「私ね、祐一と会うまで、一日がこげん大切に思えたことなかった」灯台は、かつて失われたもの、今取り戻そうとしているものの両方を象徴する。最後に祐一が光代に対して取った行動により、光代は社会的には救済されたのかもしれないが、彼女の「生」そのものを奪う行為だった。結局のところ、祐一は、人を信じること、誰かと何かを共有することを拒否して、全部自分のものにしようとしたのだ。しかし、祐一は、果たして賭けに勝ったのだろうか。
 エンタメ系文体で書かれていて読みやすく、しかも、気がつけば、「悪」がどのように立ち上がるのか、人はいかにして「悪人」になるのか、そうした哲学的命題について考えている。吉田修一、恐るべし。