「負け」から生まれる何か 吉田秋生『海街diary1〜6』

 この夏公開され、綾瀬はるか長澤まさみら有名女優の共演でも話題になった『海街diary』は、生と死や家族のありようを問い続けてきた是枝裕和監督の集大成という感じだった。見終わった後、幸福感に包まれていた。よかったといろんな人に触れ回っていたら、原作は吉田秋生の漫画『海街diary』、いい映画になるに決まってると言われ、早速その人に借りて漫画を読み始めた。
 主人公は浅野すず(中学1年)。彼女は父親の葬儀がきっかけで、母親違いの3人の姉(香田幸、佳乃、千佳)に出会い、やがて鎌倉で3人と暮らすことになる。すずの両親は不倫の末、結婚した。香田三姉妹から見れば、すずの母親は父を奪い、家庭を壊した女で、父親は自分たちを捨てたということになる。その後、すずの母親は病気で急死し、すずは再婚した父親と2人の兄弟がいる継母と5人で山形のとある温泉街で暮らしていた。温泉街での生活もつかの間、父親もまた病死した。葬儀の場に現れた三姉妹の長女幸は、入院した父親の面倒を見ていたのが、実はすずだったことに気づく。葬儀の場でもずっと気丈に振舞っていたすずだが、幸から父親の面倒を見ていたことの礼を言われたすずは、抑えていたものが破れ、号泣する。そんなすずを見て、幸は帰りの駅のホームですずにいっしょに暮らそうと持ちかけたのだった。「すぐ答え出す必要ないから」と言う幸に、すずは「行きます!」と即答した(香田三姉妹の母親も再婚し、鎌倉を離れて暮らしている)。
 鎌倉へやってきたすずは、地元の男女混成のサッカークラブに参加し、友達もできて、父親の死で止まっていた彼女の時間は少しずつ動き始める。『海街diary』はいろんな読み方ができる物語だが、何よりもまず、すずちゃんの緩やかな回復の物語といって言いと思う。生きる場所を見つけ、凍りついていた感情がゆっくりと解放されていく。
海街diary』は人間関係がややこしい「家族」の物語。しかし、吉田秋生が語ろうとするものは、このややこしさ抜きにはありえない。『海街diary』は、肉親の死や不倫といった負のできごとを前提にした「家族」、足し算ではなく引き算から生まれる人のつながりを描こうとしているのだ。別の言い方をすれば、生きていくために、どんな「負け方」をするのかを描く物語でもある。
 第6巻『四月になれば彼女は』の第2話「逃げ水」には、人々の「こんなはずじゃなかった」という思いが描かれる。うまく負けられなかった人は悔恨の人生を送るし、死の病に取り付かれた人は何で私がと思う。だけど、「負け」は誰にでもひとしく訪れる。問題は、負け方なのである。
 幸が看護師として勤める市民病院にアライさんというヘマばかりやらかす看護師がいる。この人の描かれ方がおもしろくて、上司の幸はアライさんがヘマをするたびに、怒鳴り散らしアライさんをののしるのだが、当のアライさん本人は決して作中に登場しないのだ。アライさんはいわばトリックスターなわけだが、今の文脈で言うと、「負け」(失敗)がデフォルトの人ということになる。緩和ケア病棟にいる患者さんたちは、その「負け」のアライさんに心開く。
 鎌倉の美しい自然や四季折々の風物詩、お店や食べ物が描かれるのも、『海街diary』の魅力。映画にも出てきた桜のトンネルや夏の花火、面掛行列や光明寺お十夜といったお祭り、あと庭にある梅の木で作る梅酒、しらすトースト、それから海猫食堂や山猫亭、尾崎酒店のバー(あそこで熊おとしが飲めたら!)…
数え上げたらきりがない物語の小道具や背景は、実は作中人物を支えるものであり、全体としてすずたちを包み込む器としての鎌倉という街を形作っている。
 6巻までに4回もお葬式や法事のシーンがある『海街diary』は、人は死を回避できないというところから発想されている。物語の背景に描かれる自然も同じものである。「晴れた日は空が青い/それはどんな気持ちの時もかわらない/それだけは/神様に感謝したいと思います」(第5巻『群青』第3話「群青」)
 ぼくは『海街diary』の読後感に、谷崎潤一郎の『細雪』に似たものを感じたが、それはどちらも四姉妹の物語だというだけではなく、ここに「世界」があるということを信じられるからである。