殺すのは誰か 伊藤計劃『虐殺器官』

 この作品を今まで知らずにいたのかというショックを受けた。なぜ伊藤計劃が重要な作家なのか、なぜ『虐殺器官』が読む者に強い衝撃を与えるのか、それはきっとすでに多くの人が論じているに違いない。だた『虐殺器官』を読み終えた者として、これほどまでに真摯に人を殺すことの意味を問いかけ、生々しい格闘の軌跡を見せている作品はめったにないという意味で、この作品に価値があるのだということは言っておきたい。同時に、近未来を舞台にした戦争小説として、ジョン・ポールという謎の男を追うサスペンス小説として緻密に練り上げられた小説でもある。
 暗殺を専門に行う米軍の特殊部隊に所属する主人公クラヴィス・シェパード大尉は、世界各地で頻発する内戦における大量虐殺の首謀者を殺害する困難な任務を何度も成功させてきた。主人公について伊藤計劃の言葉が文庫の解説に引用されている。
〈「一人称で戦争を描く、主人公は成熟していない、成熟が不可能なテクノロジーがあるからである」というのは最初から決めていました。ある種のテクノロジーによって、戦場という、それこそ身も蓋もない圧倒的な現実のさなかに在ってもなお成熟することが封じられ、それをナイーブな一人称で描く、というコンセプトです。(…)〉
 クラヴィス・シェパードをはじめ、特殊部隊の隊員は、みな戦場へ赴く前に「人殺しをやりやすくする」カウンセリングを受けている。「深刻な心理的ダメージを低減させるための処置」だとカウンセラーは説明するが、暗殺を繰り返すたびに「ぼく」の心に重くのしかかるのは、いわば殺意の虚構性である。「この殺意が虚構だったとしたら、ぼくの殺意でなかったとしたら、ぼくは罪を失ってしまう」
 罪を負うこと、つまり自分の生を生きることさえ、彼らには禁じられているようなのだ。そのことは、事故で脳死状態になった母の延命措置を続けるかどうかの判断を迫られた主人公が、「ぼくは母を殺した」という考えを引きずるのと対照的である。後進諸国の大量虐殺の背後にその存在が見え隠れするジョン・ポールを追うクラヴィス・シェパードらは、自らの存在そのものの矛盾に苦しむようになる。
 虐殺が繰り返され、死屍累々の戦場が「ぼく(クラヴィス・シェパード)」の行く手に次々に現れる。そしてクラヴィス・シェパードもまた、まるでシューティングゲームのように殺しまくるにもかかわらず、殺す主体が不在であるという実に気持ちの悪い事態が乗じているのは、わたしが意志して選択するという行為を戦時テクノロジーが押さえ込んでいるからである。「純粋な自由は存在しない、自由は取り引きの問題だ」とチェコアナーキストはいい、「自由とは、選ぶことができるということだ」と「ぼく」は考える。自由とは何か、本書はそれを問う小説でもある。必読の書。